和食
食べ物屋の始まりへテコトコ
茶店が1420年代に、江戸(東京)に現れたのは明暦の大火以降(1657年)の浅草奈良茶飯屋が最初。煮売り屋も出で来る。(挿絵は『江戸名所記 浅井了意 寛文2年1662年』の煮売り屋)
1660年代に蕎麦屋が、1680年代に鮨屋、当初は酒の肴の鰻蒲焼き、有名な『生類憐みの令』が邪魔しましたが、廃止後(1709年)一気に専門店増加。鰻丼も1810年代に考案され、更に増えました。
明和・安永年間(1764-1781年)に料理茶屋。この間に会席料理屋升屋開業、享和のころ(1801-1803年)に今も有名な八百善(HPでは1717年)が開業しています。
天ぷら(ごま油で揚げた野菜天)も屋台で1780年代にあり、1800年当初に高級魚の天ぷらが登場、安政年間(1854-1859年)に居見世も。江戸の四大名物が揃う。資料が多い蕎麦と鮨から店名を見ていくことにします。多く使った資料『七十五日 1787(天明 7 年)刊』『江戸買物独案内 1824年刊』以後略『買物独案内1824』『江戸名物酒飯手引草 1848年刊』以後略『酒飯手引草1848年』
鮨屋
それが、17世紀中頃、大阪の箱ずし(資料では京都の医師松本善甫が発案江戸に伝えたとされています。)、姿ずしから、早ずし、一夜漬けずしという酢飯に魚の切り身を乗せるものが登場し、屋台で売られていました。
いまもある「笹巻き毛抜きすし」、京都の鯖姿ずし「いづう 京都市祇園 1781年」大阪には姿ずし老舗「総本家小鯛雀鮨すし萬 大阪 1653年、最初魚業1781年より」や箱ずしの名店「吉野鯗(ヨシノスシ) 1841年」が続いています。
最初は屋台で押しずしを売っていたとされる華屋与兵衛が1810年頃、握り鮨を完成させたといわれています。江戸時代中期1700年代では「御膳御鮓」「御鮓所」と頭や尻尾に付き1800年代は寿し・寿司は鮓や鮨の当てた縁起のよいイメージ好字名付。
地名系
最初の鮨屋は江戸の地誌『江戸鹿子 1687年刊』掲載の「近江屋」「駿河屋」、早なれすしを売っていました。同じく『江戸惣鹿子名所大全 1690年刊』には交ぜ鮓、早漬鮓の看板の「深川屋 深川富吉町」「伊勢屋 日本橋本石町」が載っています。
ブランドの店の名とは伝統とそれに寄せる信頼性から成っているのは江戸時代も変わりなく、馴れ鮨の頃からの地名で現在もエス行中「釣瓶鮨(つるべすし)弥助 奈良県吉野 1100年代」の名で知られる吉野地名は今も多いです。
吉野は言わずと知れた、桜の名所の吉野、その美称、美吉野からの美好、三好、旧国名の大和もありました。
『七十五日1787年』には「吉野鮓 神田」「吉野屋 赤坂」『買物独案内1824』の「よしのや久蔵 日本橋通四丁目」『酒飯手引草 1848』には3店。(写真の吉野鮨は苗字からです。吉野政吉さんが屋台から日本橋魚河岸で開業、この時代に苗字が名乗るのはほとんどなかったので、吉野の釣瓶鮨が後押していたのではと思うのですが・・・)。
他に『七十五日1787』に「鳴門ずし」2店、「長門鮓 銀座」「美濃屋(長良川の鮎ずし) 元飯田町」
「千住みやこすし 千住 1848年」からの有名な浅草「弁天山美家古鮨 1866年」と屋台からの柳橋の「美家古鮨 1866年」、「都寿司 水天宮 1887年」等。
最初、東の都、東京になってから(1868年東京奠都の詔から)考えたが、江戸時代の終わり頃から出てきているので、京都からの名づけなのか、どちらにしても雅な、人々があつまる場所のイメージ。
東京エリアに関係するのは『七十五日1787』「あづま鮓 市ヶ谷」幕末番付「東寿し 山下町(今の日比谷当り)」大正時代番付「東鮨 箱崎一」「吾妻鮨 芝巴町」その他幕末番付「永代寿し 永代橋」、隅田川の別称宮戸川の「宮戸寿し 田原町」江戸周辺を表す地名。
江戸という鮨の始まりに戻る地名も現れます。「江戸川壽し 小日向水道町 『酒飯手引1848』掲載」「江戸銀 本所 1924年(再掲)」
現代になるともっと具体的になり、魚がし、築地、90年代に回転鮨が隆盛となり、ハレの日ではなく、日常的に食せるような店が増えると、新鮮な魚介類の近場の港から地方からの出店が増えると清水、沼津、銚子、三浦三崎港、日本海等。
名前系
ただ美家古寿司の親方が著作の中でいっているように二代、三代と続けていくのが蕎麦屋より難しい商売のようで一家でというよりも弟子がその名を継いで行くことが多いです。
上の「華屋与兵衛鮓」系では「㐂寿司(名前喜太郎の一字、㐂は略字) 人形町 1923年」、銀座の「二葉鮨(『季節の始まりから』掲載)」出身の「なか田 銀座 1950年」「おけい寿司 八重洲 1923年最初銀座」「銀座源 銀座 1950年代」。
「銀座なか田」この時代には珍しい名前からではなく苗字。高級鮨で有名だが、「奈可久 六本木 1979年」のように「銀座なか田」と自分の氏名の組み合わせもあるが、メインは姓の上ひらがな、下漢字と言うスタイル。銀座きよ田、要町すゞ木、赤坂よね山、あら輝、さわ田、くわ野と多いです。
他住所と名の「新富寿し(新橋の富太郎さん) 新橋 大正初め」、修行先「紀の善」と自分の名文治郎の一字で「紀文寿司 浅草 1903年」、女性店主の「おつな寿司 六本木 1875年」
「辨天山美家古寿司」のように字替えは鮨屋の世界では珍しいですが、同名が近所に多いので「与志乃 京橋 1949-2013年(『苗字・名前』掲載)」は苗字吉野を替え字にしていました。ここから「数寄屋橋与志乃 1959年」を改名した超有名店「すきやばし次郎(小野二郎氏) 1965年(『流行の先へ』2度再掲)」が出ています。
上の「寿司幸」「久兵衛」や日本橋の「鮨金 1902年」の修行先として名前だけは上がる謎の伝説の鮨屋らしいです。書いた情報も未確認です。
この二人以外には過去を振り返らない店名が多い鮨屋ですが、大手のチェーン店「すし田」系列でカジュアル「鮨処写楽 銀座 1957年」高級鮨「乾山 六本木」「古径 銀座」、個人店ミシュランビブグルマン店「宗達 初台 2016年」と「すし光琳 神泉 2021年」。
なぜか画家名ばかり、「古径(大正昭和の日本画家小林古径?)」以外は江戸時代の有名画家名で、東洲斎写楽、尾形乾山、俵屋宗達、尾形光琳だと思いますが・・・。
今は一字組み合わせでなく中心はフルネームの姓か名前中心。回転鮨の普及により、日常化した鮨の対極として、日に10人以下の限られたお客を相手の高級鮨は向き合う時間も多く、真摯に対応するため、一番選ばれるのは心理的に見ても、当然の結果でしょうか。 ★TOP頁へ★(和食) ☆鮨屋TOP頁へ☆ 蕎麦屋TOP頁へ ☆和食全般TOP頁へ☆
鮨屋奈可田(銀座)閉店
「鮨青木 銀座」の先代など数々の名手を出していて、その点でも有名なお鮨屋でした。店名も継ぐ名として以前「奈可久」を揚げましたが。他に「奈可村(中村征夫氏) 赤坂 1979年」「なか一 京都 1970年」もありました。名前の一の字と修行先「なか田」のなか、奈可をつけたものです。
昭和60年代の最初の頃のガイドに「鮨なか田」として、鮨の字を寿司ではなく、最初に頭に付けたのは中田一男氏本人が自分だといっている書いてありました。「奈可田」出身の「鮨さゝ木 築地 1988年」「鮨きよ本 銀座 2008年」「鮨西むら 六本木 2015年」は引き継いでいます。
2015年のガイドに載っている「寿司さいしょ 銀座 2015年」は鮨ではなく、寿司。さいしょは税所さん、寿司は魚だけでなく肉も提供するのと祝い事など特別の時に食する"寿司"の意味をこめいてるとのこと。
雑誌『ダンチュー』の記事で寿司栄の店主の『店名をヒラガナで開く』という言葉を知りました。
中田さんのように漢字2字をなか田と3字にすること。偶数は割れるとして縁起が悪く、暖簾も3枚、5枚の奇数。それにあわせて平仮名交じりの店名がつけられるそうです。
「奈可田」出身の「きよ田」、食べログから「みよ志鮨 東向島 1963年」「鮨処喜与し 市谷 1967年」と現在まで続いています。
「寿司さいしょ」はそういう意味でも、型にはまらないタイプかも。江戸前が正統といわれながら、鮨屋の世界も少しづつ変化してています。今は氏名が主流ですが、また変わっていくのでしょうか。 (2017.6.30)
賀字系(吉祥名)
左の引き札、お土産鮨の頃からの『七十五日1787』「翁ずし 村松町」正月の能楽から(『
蓬莱鮨、本来は東海の仙人が住む島の国の名だが、正月の飾りの名でもある。現在は宝来とさらに賀名化しています。「ほうらい鮨本店 日本橋 1865年頃(グループ内「すし鐵(上野で鉄五郎が始めた) 日本橋 1978年」は最初ほうらい鮨の店名)」
昇る朝日の「日の出寿し糀町三丁目」「旭寿し 鎌倉河岸」『江戸酒飯手引き』そのままの「目出度(メデタ)寿し 上野広小路」「萬年寿し 浅草区正傳町」「おかめ寿し音羽九丁目」「末廣寿し 南八丁堀三丁目」「寶寿し 牛込赤城下横町」。
神様関係の宝玉の「玉」、『熈代勝覧(きだいしょうらん)』絵巻1805年頃』に絵描かれてるのはテイクアエト専門「玉鮓 本石通」左の『買物独案内1824』掲載の「翁屋庄兵衛玉鮓所」と同じ鮨屋。
絵巻と『買物独案内1824』のロゴマークは稲荷神社由来の稲穂とおさらく店名の由来、宝玉が描かれていますね。同書には常陸屋周八「玉寿し 本郷四丁目」も載っています。『酒飯手引草1848』に一気に増えて9店舗も載っています。(コラム『築地玉寿司』もあります)
何よりも多いのが松竹梅、菊と鶴亀。吉祥紋、絵柄として正月に多く使う同様にとても多いです
歌舞伎からの家紋名系
もっとも古い下賀茂、上賀茂神社の二葉葵の神社紋以外、起源がよくわからない二葉鮨。地名にも明治以降の比較的新しい、『酒飯手引草1848』に「二葉壽し 本郷一丁目」「二葉壽し 本所石原片町」「二葉壽し 神田鍛冶町」。
上に書いたように「二葉鮨 銀座 1877年(再掲)」は江戸末期からあった葭町二葉鮨の流れであるとのこと。銀座の名店として、明治大正昭和の有名な職人、鮨屋がかかわりある店で、そのため全国区で店が多くなっています。双葉とも。確認はまったくできていませんが、相撲大力士、双葉山も少しは影響を与えているかも。⇒参照 二葉・双葉『季節の始まりから』
左の挿絵の釣瓶が鮨のいれものです。ただ、広がったのはこの店名ではなく、上に上げた地名の大和すしや吉野酢です。それ以外『七十五日』には「吉野釣瓶鮓 横山町」「釣瓶鮓 浅草(大和吉野から出店)」『江戸買物独案内1824』「やまと寿し 櫻田久保町」
蛇の目の印、黒塗部分多い〇印、加藤清正の紋で、鮨屋だけの店名といっても良い蛇の目。太目の○が目印になっています。すしの種類のひとつ、蛇の目を模った鮨があって蛇の目鮨になったのかわかりません。
天明9年(1789年)の資料に載っている新しめの店「蛇の目すし 葦屋町」『江戸買物独案内1824』「蛇の目寿し 大傳馬町」『酒飯手引草1848』では増えて「蛇目壽し 本所二目橋」「蛇目壽し糀町」「蛇目壽し 神田須田町」「蛇目壽し 浅草瓦町」「蛇目壽し 本所法恩寺」ほかコラム掲載「蛇の目鮨(日本橋)」(『蛇の市本店(日本橋)』も参照)
蛇の目傘が16世紀はじめに、改良されて作られ、吉宗の時代に紋付の傘が評判で、流行したとのこと。
その蛇の目傘が似合う歌舞伎「助六由縁江戸桜」が市川団十郎によって1832年に初演。この期に鮨屋の店名として、登場しています。助六が江戸庶民にかっこよさへの憧れを持って迎えられ、花道の蛇の目傘もかっこよいと思われてのでしょう。
写真「蛇の目寿司 新富町 1865年」は幕末の西郷隆盛と勝海舟の会談の場に出前をしたといわれ、助六寿司(稲荷と巻きずしのセット)の発祥の鮨屋ともいわれています。
同じく奴鮨。鰻屋1店を除けばこちらも以前は鮨屋だけでした。武家の一番したの階級で、家の子から奴。粋でいなせで、義侠心の富む生き方が歌舞伎で演じられ、先の助六にも出で来る、侠客、男伊達。町奴で有名な幡隋院長兵衛は歌舞伎に多く取り上げています。
奴物の人気と奴踊りの面白さ。また、空から武士を見下げる奴凧。江戸っ子が『弱きを助け強きを挫く』の任侠心でかれらに憧れ、この店名が付けられたのでしょうね。
ただ東京の老舗は発見できず、ネットには神田の三代にわたる「やっこ鮨」、全国では多く有り「奴寿司 札幌市 1937年」日本三大鮨屋として挙げられている熊本県「奴寿司 天草市 1974年」、大阪のおまかせ鮨発祥を掲げてる「奴寿し浪花町総本店 大阪市 1970年頃、4店あり」ビジネス系「奴寿司 日光市 1962年1号店」
もう一店、いなり寿司の鮨屋「志乃多寿司」も浄瑠璃『葛葉』・歌舞伎『葛葉狐』から ★TOP頁へ★(和食) ☆鮨屋TOP頁へ☆ 蕎麦屋TOP頁へ ☆和食全般TOP頁へ☆
鮨屋の店名2000年代 (追加2022年01月18日)
『比べてみるー拡がる店名、留まる店名』で形になりませんでしたので、少し調べたことを書きます。ただ結論を先に言ってしまうとほとんど変化なし状態。変幻自在の喫茶店・カフェとの比較で10年くらいの食べログ等を見てみたのですが、チェーン店と姓名で7割くらい。残りはクラシック店名の継続、食材系、和食の様にコンセプト店名等。
移転を繰り返しているミシュラン鮨店「すし吉武 六本木 2005年」から「鮨よしたけ 銀座 2010年」になる例も。
名前だけでなく「いなせ」「はしり」「ふくじゅ」「つぼみ」等。多くは店の暖簾に店名を分かち書きにせず、左側、左下にフル店名を書いています、それもとても小さく。(※今の鮨屋は完全予約制が多く隠れていて暖簾もなくビルの上階にあって写真は撮れません。趣旨に合う写真は無理で、撮れた写真だけのみの掲載になっています。これだけは喫茶店・カフェと同じ、それ以上に間口が狭いです。)
賀字や名前以外の漢字一文字のすっきり系も。最初の頃の「すし遊 浅草 1987年」「鮨兆 赤坂 1992年、姉妹店すし兆(白金台 2004年)」から「鮨凛 銀座 2002年」「艪(KAIーカイ」「鮨十(スシトウ) 西麻布 2017年」「すし〇 荻窪 2014年」「鮨四(スシヨシ) 六本木 2016年」「鮨在(スシザイ) 広尾 2019年」「寿司空(ソラ) 町田 2020年」。由来がわかるのは2店、「鮨在(ザイ)」は『在郷』からの一字で、故郷を意味して、お客が帰ってくる場所を作っていきたいそうです。「鮨四(スシヨシ)」は最低4回来店するとそのお客はまた5年以内に通ってくれる(ある調査から90%だそうです)ことから。
ビジネス系は早く「すし好(推測ですがオーナーの名仁孝の字替えかも) 築地 1984年」「すし鮮 築地 2001年」京樽の「粋(スイ) 人形町 2020年」。一字でも読みが多い場合も「彩(イロドリ) 築地 2021年」「すし寿(コトブキ) 西新宿 2021年」
◆ 参考文献 ー2022年01月18日追加
◆すしの話 篠田統 駸々堂出版 1978
◆すしの本 篠田統 柴田書店 1966
◆鮨 宮尾しげお 自治日報出版 1972
◆ベストオブすし 文藝春秋 1988
◆鮓・鮨・すし 吉野曻雄 旭屋出版 1991
◆江戸前にぎりこだわり日記 川路明 朝日出版社 1993
◆すしの事典 日比野光敏 東京堂出版 2001年
◆東京のすし通になれる本 枻出版社 2006年
◆日本一江戸前鮨がわかる本 早川光 ぴあ 2007
◆全国極上鮨の名店 KKベストセラーズ 2008年
◆銀座のすし 山田五郎 文芸春秋社(文春文庫) 2013年
◆すし天ぷら蕎麦うなぎ 飯野亮一 筑摩書房 2016年
◆料理王国2007年2月号(すし屋に光る技・人・心)
蕎麦屋
全国的には饂飩の方がひろまっているが、やせた地味に育つ蕎麦は茹で時間がうどんに比べ短く、せっかちな江戸っ子の嗜好にあい、それ故、文献に多く載っています。
左の挿絵は『絵本江戸土産 歌川広重作 1850-』の中の両国橋の納涼図、上の店酒屋と二八蕎麦の蕎麦屋が描かれていました。蕎麦屋は屋台でけんどんそば切りの名で寛文年間(1661-1673)から資料に上がっているそうです。
意味所説多のけんどんは蕎麦盛り切り一杯、蒸し蒸篭で出すいわゆる温盛蕎麦。やっと享保年間(1716-1736)になり蕎麦屋の名称が定着しました。
夜に屋台で蕎麦を売る「風鈴蕎麦」や「夜鷹蕎麦」も享保年間から。名が知れた高級蕎麦屋も登場、「瓢箪屋そば切り 麹町」「雑司ヶ谷蕎麦切り 雑司ヶ谷鬼子母神門前」(『江戸鹿子』)。もちろんそれより古い京都の「尾張屋 1465年、最初和菓子店、1700年頃から」大阪の「大坂砂場」があります。
蕎麦屋のブランドはいまに続く3系統あり、江戸時代から現在まで繁盛している。まず藪系、そして砂場系、最後に更科系、共に老舗として現在も営業を続けている。
地名系
蕎麦屋は地名と産地はそんなには関係せず、「伊勢屋」「伏見屋」「冨士屋」「富岡屋」「大津屋」等(『蕎麦全書1751』掲載)
先の三店は大きく捉えると地名に分類される。ただし、長い歴史の間に初代がつけた屋号ではなく、客がつけた通り名に代わっているものです。
● 藪系
通称藪の蕎麦、江戸中期の頃からお爺さんが作る蕎麦が評判になっていて、雑司が谷にもう一軒(橘屋忠兵衛の店)できて、周りが藪に囲まれていたため、藪内の蕎麦と呼ばれていて、その名を美味しい蕎麦屋の名として継ぐ形で通り名が引き継がれてきているタイプ。
1815年の料理番付掲載の信州出身の夫婦が開いた別系統の「深川藪蕎麦(藪中庵とも) 深川扇橋町 1897年頃閉店」も長く続いた藪蕎麦。
有名なのは明治の蔦屋、明治の蔦屋は藪に囲まれ俗称ではあるが薮下にあったので、その名を引き継ぎ、繁盛していたが、主人の放蕩のため、廃業し、その支店が現在の神田藪蕎麦が継ぎ、藪系の総元締めとなっています。
親戚筋は地名プラス藪蕎麦、「並木町藪蕎麦 1913年」「池之端藪蕎麦 1954-2015年」「上野藪そば 1892年(最初名前の一字+で藪安)」「浜町藪そば 1904年」弟子筋は藪プラス名字となっていると雑誌「東京人」に書かれていました。
商標登録ができないため、正式なもの以外にも藪名は多い。元は藪グループだった「藪伊豆 日本橋 1882年」。変化形もあり、「藪忠(忠太郎の一字) 西ヶ原 昭和初期」、藪音、藪藤、「やぶ久(久二郎の一字) 日本橋 1902年」、やぶ重等。
「池之端藪蕎麦」で修行の「竹やぶ 千葉県柏市 1966年、1993年恵比寿竹やぶ、六本木2003年」は多くの職人を育てた有名店主阿部孝雄氏の蕎麦店。「上野藪そば」出身の「そば切りやぶ 巣鴨 2013年」も。
▲ 砂場
東京で一番古い系統が砂場、元は大阪の蕎麦屋和泉屋、または津国屋、共に大坂城の砂置き場の近くの蕎麦屋で通称で"砂場"。最初は饂飩切りで1700年代(享保年間)に江戸へきて開店したそう(「大和屋大坂砂場 薬研堀」『蕎麦全書1751』)。1800年代には6軒もの砂場がありました。(『江戸酒飯手引』)その中には今も続く系統「砂場そば砂場藤吉 糀町七丁目」もありました。
上記の神田藪ももとは「中砂ー真ん中の砂場」といい、砂場出身とか。
地名から巴町(最初久保町)砂場と上の砂場藤吉の三ノ輪砂場(最初麹町)砂場系統が現在も続く砂場。蕎麦屋の巴屋の起源として『巴町の巴が由来、愛宕下でやっていた』と「巴町砂場 1839年」主人が語っていましたが(『東京人 1992年12月号』)、その砂場2017年6月閉めてしまいました。
砂場そば砂場藤吉 糀町七丁目」から暖簾分けで「虎ノ門砂場 虎ノ門 1865-1869頃開店」と「室町砂場 日本橋 1872年」
砂場の店名が変化することなく地名プラス砂場の店名がほとんど。大坂は「す奈は」となっていたのに。三店舗の中では少ない、食べログ上39店。
◆ 更科
最後が更科。これは2軒とは違って本来は蕎麦の名目で屋号は創業者のもとの商売布屋で「布屋太兵衛」あった。ただ、その創業前から信州更級村の名をとった更級屋もあったので、更科の創業者がこれを念頭に出身地と主人筋の保科家の苗字から創作店名です。
更科蕎麦が質の良いものだったのでこちらのブランド字が広まったそう。暖簾分けは直径血縁者(分店)と親類修行人(支店)に制限され、大店として評判の上がった明治期以降に多く店数が増えていました。
「神田錦町更科分店 1887」「麻布永坂更科支店布屋善次郎(通称牛込更科) 深川佐賀町 1899年、現さらしなの里1967年より」「有楽町更科 1902-1994年」「芝二本榎西町支店 1907年」「下谷池之端仲町分店 大正年間」「有楽町更科」から「銀座更科 1924-1995年、最初尾張町支店」「麴町更科 1972-1997」「布恒更科 大井町 1963年、2004年築地支店」、此処で修行の「更里 浅草 2004年」
現在は本店は麻布十番に企業化した麻布永坂更科本店と蕎麦屋とし営業している総本家更科堀井、1948年の開店、別経営者による永坂更科本店の3店があります。
賀字系ー多くの暖簾分け
そして縁起良い賀字にあたるもの、豊年、千とせ、百世、長生、朝日、そして翁。鮨屋にも付いている翁蕎麦(白髪のように細く白いさらしな)の「翁屋源右衛門 深川熊井町 11790年代の『江戸買物独案内1824』掲載」。今あるのは「翁庵 神楽坂 1884年(再掲)」「翁そば 浅草 1914年」
現在は蕎麦割烹「翁 恵比寿 1991年、麻布更科から」。全国的に有名なのは「翁 南長崎 1975-1985年、写真は暖簾分け品川店」を皮切りに山梨県、広島県で開店、蕎麦指導の活動する高橋邦弘氏のグループ翁達磨系。両店とも再掲ですが、どちらも上の深川の翁蕎麦からの名付けです。
地名から賀名に転換したのは1750年代の有名な道光庵(ドウコウアン)から、庵の付く蕎麦屋の元祖。道光庵は蕎麦屋ではなく、浅草称往院(ショウオウインー世田谷区に移転、碑もある)の庵で信州出身の庵主が蕎麦を打ち提供したのがとても美味しいと評判になり人々が押しかけたことにより有名になりました。
ただ、それに怒った寺が中止にして蕎麦の出入り禁止になり(世田谷区に移転した寺に出入り禁止の碑が残っています。)、その後、蕎麦屋が庵系の名にあやかってがつけることになりました。
1824年の『江戸買物独案内』には松桂庵,正銘庵、東玉庵、雪窓庵、ことぶき庵等。
現在の「明月庵(銀座)」に繋がる明月堂も載っています。1871年に「地久庵」、多くの文学者芸能関係者が書している「萬盛庵(奥山萬盛庵の呼び名も) 浅草公園 江戸中期―戦中空襲で閉店」。最初の店舗は懐石料亭のような庭には離れの座敷も多くあったそうです。『東京明覧1907』には同名の店が周辺に4店載っていました。(上の挿絵の上の建物が萬盛庵、東京都立図書館デジタルコレクション浮世絵から『東京自慢名物會 豊原国周の錦絵 1896年』)
都内も含め全国にその名が採られ中でも「萬盛庵 山形市 1915-2009年」が有名。意味は萬年も栄える、いつまでも繁盛の意味でしょうか。1905年創業の「石村萬盛堂 博多」がこの意味です。
あたらしい店も「利庵(利夫さんの一字) 白金 1985年」好きな言葉と「無庵(ムアン)」「眠庵 神田須田町 2004年」「玄蕎麦路庵 下北沢 2014年」ビジネス系「雷庵(RYANーライアン) 渋谷 2016年」ほか。
暖簾分けでの店は明治時代の創業が多く、急激に増えていきました。
1870年尾張屋(浅草)、朝日屋は1912年(1909年稲廼屋の2号店として、後朝日屋に改名)、1920年「松月庵(池之端)」、「長寿庵」、「浅野屋」、「満留賀」、「巴屋」。
以前『蕎麦を食べると長生きができるという言い伝えからきている』と書きましたが、『蕎麦春秋vol.14』記事によると宗七の故郷宝飯郡の村の老人が193歳の長寿で幕府から称えられたことにあやかり、「三河屋長寿庵」にしたとか。
他に有名店も、江戸の色々な案内に載っている「無極庵(『禅語』『無ワールド』)」、コラムに二店「まつや」「玉屋(『タマヤ、いろいろ』)」を載せています。
名前系 ⓢー (追加2022.3.26)
写真は今もある「あさだ 八丁堀 1892年」お客のブログからだと初代が働いていた製粉会社の名前を使わせてもらったそうです。もっと古い安政元年創業の初代穀物商浅田甚右衛門の「あさだ 浅草橋 1854年」も現役。
上の名目で上げた運搬用入れ物の名からの「釣瓶蕎麦 吉原 1742~1743年頃」を1768年頃引き継いだ増田屋半次郎。明治になって暖簾分け「増田屋 麻布区笄町 1891年」「増田屋 青山 1912年」と続く大きな蕎麦屋グループ
自分関係な以外は和食の雄、利休と民話で人気の一休、信州出身の蕎麦好き一茶は別格。『続江戸砂子1753』に載っている「一休名残蕎麦 江戸川橋、これに所縁の名の橋がある」。「銀座一休庵 銀座 1949年、今は天婦羅屋」「利久庵」
彼の息子なり、弟子なりから教えを受け、定年退職後に趣味的にものから、蕎麦屋を開店する男性が多くなり1980年代から、個人の名前でオープンする傾向が強くなって、現代主流の店名です。
ほさか、安藤、ほそ川、やざ和、織田、いけたに、成富等。老舗の看板を背負ってでなく、個人の力の及ぶ範囲で好きに、インテリア、材料、蕎麦打ち工程にこだわりを持ちながら、やっていく人が増えたと言うことです。
ただ『蕎麦漫筆 多田鉄ノ助 現代思潮社 1954年』には多くの夜鷹(街娼の呼び名)と夜鷹蕎麦があった吉田町(本所吉田町)からという説もあります。
多くの暖簾分け店があり「大村庵 新宿 1926年、最初品川、最後の移転1948年」「大村庵 立会川 1929年」など。
茶道始祖利休からの「利久庵 浅草北馬道町」を含め『酒飯手引草1848』には3店載っています。このころから人気の名前の店名だったようです。(2022.3.26)
◆ 参考文献 ー2022年01月18日追加
◆ベストオブ蕎麦 文藝春秋 1990
◆蕎麦辞典 東京堂出版 2002年
◆蕎麦年代記 新島茂 柴田書店 2002
◆蕎麦屋の系図 岩崎信也 光文社 2003年
◆東京五つ星の蕎麦 見田盛夫 東京書籍 2006
◆至福の蕎麦屋 東京ソバリエグループ ブックマン社 2005
◆東京蕎麦 枻出版社 2007
◆至福の蕎麦屋 ブックマン社 2005
◆ちょっとそばでも 廣済堂出版 2013
◆こだわりの本格蕎麦 一個人 KKベストセラーズ 2008
◆おいしい蕎麦の店 ぴあ 2014
◆すし天ぷら蕎麦うなぎ 飯野亮一 筑摩書房 2016年
和食全般
京都の1600年代祇園二軒茶屋(藤屋と中村屋、現在の中村楼)の焼田楽の豆腐料理をメインにした茶屋(田楽茶屋)から始まったとされています。
豆腐茶屋は八代将軍吉宗の死後(1751年以後)両国に「日野屋」「明石屋」が淡雪豆腐名物に看板を上げていたそうです。
京都に今も残るのは超が付く老舗のスッポン料理店「大市 1683年頃(元禄年間)」、江戸っ子には残念ながら人気は今ひとつだったよう。
寛延・宝暦(1688~1703年)あたりの薬喰いの名目の肉系料理屋の今もある「 ももんじや豊田屋 両国 1718年」や鳥料理店「 玉ひで」「 ぼうずしゃも)」(『肉いろいろ』参照)、居酒屋の最初、酒屋「豊島屋(地名の豊島郡(としまごおり)柴崎村から) 池袋 1596年」からで1736年頃(元文元年)から田楽と共に酒を飲ませる今でいう角打ち、立ち飲み屋を開始しています。
鯉・川魚料理の「葛西太郎(鎌倉時代の武将葛西清重の遠縁とか) 向島、後平岩に引き継ぐ」「楽庵 大橋新地」「四季庵 中州新地」等(『富貴地座居1777年』掲載)。上挿絵(『絵本江戸土産』)の江戸の景勝地の王子石神井川沿いに挿絵「扇屋 1799年」「海老屋 1799年」と続いてました。
鰌料理の「駒形どぜう 浅草 1801」もこのころ最初は「越後屋」。
本来は王道の料亭をここでは扱いたいがが、残念ながら料亭は明治以降には一般庶民に敷居が高く、マスコミへの情報も少ない状況。
1926年の関東大震災で料亭が壊滅状態となり、その頃からの京都、大阪からの進出が多く、東京だけでは比較ができないので、、日本全国エリアでカウンター割烹を中心に扱います。店としては後発の鰻屋、天婦羅屋もここに含めます。
和食自体が関西からの店が多く会席、懐石ともいわれるものであり、大阪発の「浮瀬(ウカムセー大きな鮑の盃の名、それを飲み干すのが人気に) 大坂 1704年、後に京都、江戸に出店」が会席料理店が最初とか。会合や貸席の会席が本流で、その豪華さを嫌った茶人が懐石、一汁三菜としたとか、会席が酒宴用、懐石が食事中心とかあるが、両者の区別ははっきりしないのまま、今も店名としては区別がつかないです。
明治初期に大阪で料亭料理文化が家庭でもハレの日の家庭料理法としてが引き継がれた形の割烹料理が広まりました。
食べ物屋にも明治中頃から大正にかけて割烹料理店、客の食べたいものをその場で割いて焼て(割)煮る(烹)大阪から広まったタイプも震災以後に東京にも増えていきました。
地名系 +名前
日本料理屋は茶店や仕出屋が料理茶屋、会席料理屋に代わったものが多い安永年間末、1765年から1770年代末。一品の料理屋とは違い一の膳、二の膳等フルコースの日本料理の店は仕掛けも必要で庭の風景、器、高級な材料。
1780年代の江戸の深川の伊勢屋、川口屋。「八百善」と並ぶと書かれている「平清(平野屋清兵衛) 深川土橋 文化年間(1804-1818)ー1899年」、平野は大阪か京都の地名?。有名な歌舞伎『曾根崎心中』に平野屋の店名が出てきます。
「二軒茶屋(実際は10軒以上あったとか、伊勢屋と松本屋) 深川八幡 寛永中頃(松本屋1627年頃ー1841年頃廃業)」」。大阪「堺卯(堺出身鵜野卯兵衛) 大坂 1855年」「加賀伊(加賀出身徳光伊助) 大坂 1830年、後に花外摟に改名」「灘萬(灘屋萬助) 大阪 1830年」
江戸と近辺の地名も載っています。「武蔵屋権三郎 向嶋」「武蔵屋三右衛門 四ツ谷傳馬町」「草加安兵衛 薬研堀不動前」鰻屋「草加屋吉兵衛 浅草田原町」は引き札に"奴"とあるので現在の「鰻やっこ 浅草 1789ー1801創業、最初草加屋吉兵衛」です。
他に写真は田原町から移転の同名「草加屋吉兵衛 蔵前 1800年、改名して大江戸」。
明治時代に情報が多いのは庶民には関係なかった「紅葉館 芝 1881ー1945年(再掲)」と「星岡茶寮 赤坂 1884年」、共に一等地あった政財界御用の料亭。両方とも地名というよりは通称?、芝の紅葉山にあった、日枝神社隣、星の綺麗に見える岡にあった共に会員制の店でした。
□ 江戸前
『買物独案内1824』掲載22店の店の8店は「江戸元祖」「江戸名物」「江戸前」を頭に付けていました。『酒飯手引草1848』はほとんど90軒が「江戸前」。江戸中期のガイドには鰻の江戸前、『江戸にあるのに江戸前は変だが名物だから』と書いています。
鮨店は『七十五日1787』に一店「江戸前地引すし 中林広小路」だけ載っています。江戸湾の地引網で採った新鮮な魚をつかった鮨が売りだったようです。(資料『すし天ぷら蕎麦うなぎ』より)
江戸から大阪や名古屋に握り鮨が伝わり、江戸の鮨として人気になり、鮨の場合は後からが江戸前がついたと思います。最初は地方の大和や吉野、大阪寿司の頭が付いていました。現在鮨屋が一番江戸と付く店名が多くブランド化しています。
それに続く江戸前天婦羅(ごま油揚げ)、蕎麦は最後に信州が主ですが、江戸前蕎麦、この場合は江戸風の意味で広がっていると考えます。
商売系・料理系 +名前
有名な「八百善(八百屋善四郎) 山谷 1801-1803年(HP1717年)」、明暦の大火以降に八百屋を経営していて、八百屋の善四郎からの「八百善」。その仕出し料理が評判となりの料理屋開店、特に四代目が江戸の会席料理を作り上げたそうです。(上の『料理通1822-1834刊行』挿絵絵師鍬形蕙斎クワガタケイサイによる挿絵)。
江戸の料理番付には八百半、八百榮、八百勘、八百・・は江戸の流行で、大坂、京都には少ない。大坂の料理番付には矢尾・・となっている店があり、それが八百からのものかは不明です。(『ヤオ』『流行ー八百屋』にも掲載)
明治大正にも多く「魚繁 麴町 1874年」「魚治 京橋 1913年」「魚健 葛飾郡吾嬬 1917年」「魚可津 麻布十番 1935年、1950年から定食屋」。
今も魚粕漬けで有名な「魚久(高級漁商清水久蔵氏) 人形町 1914年」小説になった「うを徳(初代魚屋萩原徳次郎氏、大正年間料理屋に) 神楽坂 明治中期」。
京都の老舗「魚三楼(初代三郎兵衛) 京都 1764年」「鳥弥三(初代弥三郎、錦市場で鳥と魚をさばく商売から) 京都 1788年」。(鳥料理は和食の料理名『鳥料理いろいろ』掲載)
居見世(店舗)がなかなかできなかった天婦羅屋、屋台に天婦羅の大きな字で表示が、〇に天ぷらからさらに〇の天になり、これが後の天婦羅屋に引き継がれていきます。
食には関係ない職種から植木屋、車屋、綿屋等『江戸買物独案内1824』では「植半(植木屋半右衛門) 墨田川」「車屋万兵衛 芝明神」。
「言問団子 向島 1868年」は元植木職人が幕末動乱時見切りをつけ、茶店「植佐(植木屋の佐吉から) 慶応年間」を開業。親しい俳人から助言で在原業平の歌『名にしおはばいざ言問はん都鳥・・・』から命名した三色団子を店名にしました。
上の蕎麦屋の商売系は少ないのでここで上げますが、更科の「布屋太兵衛」「芝大門布屋」も木綿を扱う店、他に「薪屋そば(まきや久兵衛ー薪を寺に納めていたか?) 浅草大川橋前」。 ★TOP頁へ★☆鮨屋TOP頁へ☆ 蕎麦屋TOP頁へ ☆和食全般TOP頁へ☆
自然物系
地名にあふれた江戸の町で少し変化をつけるため出てきたと考えられる店名。現在も出てくる日本的な店名。
鰻屋(『鰻いろいろ』参照、宮川・大和田掲載)にあるように川が付く店が多かったです。最初の頃は川沿いにあることを示しています。
コラム掲載川魚・鯉料理「川甚(柴又)」「川千家 柴又 安永年間(1771-1777)」も。「深川屋茂八 神田 1805年」は後に「神田川」に。
先に掲載料理茶屋初期の四季庵、青柳、菊千、雪中庵、『江戸買物独案内1824』「青柳 両国柳橋」「駐春亭(田川屋宇左衛門、春が留まるところ?) 下谷 1800年代」「金波楼(日や月の光に輝く波?) 浅草今戸町 1820年代」。
「金波楼 浅草今戸町」の名は安政の大地震で後にその跡地に建てた「有明楼(ウメイロウ、ユウメイロウ?) 浅草今戸町 1856年」の記事によく載っています。ここの女将がお菊さんという男気のある名の知れた女性だったようです。
植物の茗荷(『日本の薬味から、+少々の洋系』参照)や橘(『たちばな(銀座)』参照)。「茗荷屋沖右衛門 雑司ヶ谷」「橘屋忠兵衛 雑司ヶ谷(再掲)」(『買物独案内1824』)。「橘屋」は最初有名な蕎麦屋があったそうで後に紀州藩御用の料理茶屋へ変わっていったとか(『すし天ぷら蕎麦うなぎ』より)。「茗荷屋」も即席料理で蕎麦も提供していたようです。
ただの花(『はな・花・華・HANA』も参照)は幕末あたりから料理茶屋に付いているのですが、天婦羅茶漬専門店「花月 浅草 1877年」に始まり座敷天婦羅屋に付けています。お座敷天婦羅の最初は福井扇夫(センプ)氏の「出揚座敷天婦羅」、一式持っての出張天婦羅屋(『すし天ぷら蕎麦うなぎ』より)。
その後「岡田 不忍」から出た有名な「花家(後に花長カチョウ) 浜町 1892年(『はな・花・華・HANA』再掲)」、「花むら 赤坂 1923年、最初池之端1921年(再掲)」「花野や 銀座 1929年(再掲)」「花むら 向嶋 1929年」ほか
『酒飯手引草1848』には地名系が多くなり、賀字系と共に先に上げた以外は少なくなりました。1840年代はそれ以前の大飢饉や水野忠邦の天保の改革やオランダやアメリカの開港要求、中国のアヘン戦争と世情が落ち着かない雰囲気もあり安定した地名系にシフトしたのかも。
賀字系
江戸時代の寶來亭、扇屋、福來亭。江戸時代の後期の新しい店名です。名前のようにめでたい、縁起のよい字を組み合わせる方法です。京都では「萬亀楼(萬屋亀造) 1716~1736年、酒屋から1750年から」、別項目掲載「玉家 京都 1615年(玉 器物)の中の『店名仲間』掲載」「道楽」。
上の錦絵は『買物独案内1824』で「蓬莱屋亀吉 上野仁王門前」と載っていた亀吉の名もめでたいと繁盛した精進料理もだした店とか。「寶來家 浅草 1866年」「蓬莱亭 上野 1891年」「寶來 千駄ヶ谷 1922年」(コラム『寶來屋(九段下)』参照)
万屋も多く有り「万八(万屋八郎兵衛) 両国柳橋 明治初め廃業」が大食い大会開催で有名(『ヨロズ』再掲・参照)。料理番付は「万久 芳町」「万清 高幡」「万直 本石三」
現在も名の知れた料亭「新喜楽 築地 1875年、最初茅場町1898年移転(『喜楽・きらく・KIRAKU』掲載)」も明治時代の開店。
写真は「韻松亭(インショウテイ) 上野 1875年」、上野公園造園の際に寛永寺から飛び地になった鐘楼の隣の店。『鐘は上野か浅草か』と愛された銘鐘が松に響く様を博物館館長が命名しました。(お店のHPより)
日露戦争に勝利してからは日本的なものへ回帰し、今も知られる有名店が多数開店します。「金扇 築地 1912年、銀座1926年(再掲)」「笑福亭 上野 1911年頃」「清凌亭 上野 1929年」。二大料亭「新喜楽」とならび称された「吉兆 大坂 1930年、銀座1961年」もこの頃です。
名前系
神様仏様関連が少ないのでここで上げる「大黒屋」違うと突っ込まれそうですが、飲食や穀物の守り神で商売繁盛、五穀豊穣、出世開運の神様の大黒天の名から。武江年表「大黒屋孫四郎 1700年代後半 向島」「大黒屋七五郎 洲崎」。明治時代になると鰻屋・天婦羅屋に増えてきます・関連があるかは不明ですが甲子(キノエネ)の日は大黒様の縁日、「甲子屋藤右衛門 真崎稲荷境内」豆腐料理の田楽茶屋店として有名。甲子園のように十干十二支(それぞれ十干の最初の『甲』十二支の最初『子』で60年周期の最初)で開店年かもしれませんが・・・。明治時代には大黒屋と同じく天婦羅、蕎麦屋がありました。
1990年代に一般客にも門戸を開いた料亭「金田中 新橋 大正年間(1900年代)」は主人筋の田中と女将の金子の苗字の組み合わせだそうです。少し遅れてのカジュアル化を果たしたのは「花蝶 銀座 1927年、2004年にリニューアル(再掲)」。花鳥の字替え(コラム『花蝶(銀座)』)と考えていたら創業者の女性お蝶さんの名前からでした(『東京人154号2000年』より)。
明治期の終わりの割烹という形で、最初埼玉県で鳥屋と茶店から料理茶屋「一直(イチナオ) 浅草 1878年」、初代の華道の号名鳥松齋貞一直からで、戦後は高級料亭、今は割烹店。「星が岡茶寮」初代料理長の割烹「中嶋 銀座 1931年」
京都の懐石料理店「辻留(初代・辻留次郎氏) 1902年、お茶席の出張専門から」は東京には「辻留 赤坂 1954年」。「つる家(出崎鶴吉氏創業) 大阪 1908年(『岡崎つるや』参照)」「つきじ田村(田村平治氏) 築地 1951年」今現在の主流の店名です。
板前割烹、調理場を囲む半開放のタイプ、カウンター式の料理屋で、大坂の浜作が1924年の始めている、東京は「銀座浜作 銀座 1928年(再掲)」。鮨屋と同じに主人の顔を見せながらの調理なので、名前が多くなっていきます。
江戸後期では屋号と名前を短縮して二字で店名としいるものが多いのですが、浜作は修行先地名北浜とそのもと親方の名前との組み合わせだそうです。
1950年代頃は修行先の名と自分の名前、関連事項との組み合わせが多く、「伊豆菊(伊豆榮で修行) 幡ヶ谷 1920年」「いづ政(出井出身)湯島 1978年」等。現在は姓をそのまま、屋号とする店が多いです。
歴史系
もっとも新しいタイプ、歴史の教科書に出てくるような用語からの名づけで、その時代の登場したものもあれば、人名も店名としています。
残念ながら推測ばかりですが、文学的な世界から幕末料理番付や『「料理茶屋・菓子屋風聞承糺候儀ニ付申上候書付」1841』掲載の「小倉庵長右衛門(京都宇治周辺、小倉百人一首で有名) 本所小梅」「誰袖(タガソデー由来不明室町時代衣服の名称ですが、有名な和歌も) 御蔵前」
「百尺楼(由来不明、とても高くて長い、熟語百尺竿頭は禅宗最上の極致) 日本橋」、落語の舞台になった「百川茂左衛門(由来不明川のすべて、熟語百川帰海、川が海へ集まる、ものやひとが一つになる) 日本橋浮世小路 1784年頃ー幕末?明治初?」(『幻の料亭日本橋百川 小泉武夫 新潮社』)
明治時代の文明開化からの「開化楼 神田 1872年(再掲)」開花楼、開華楼。「玄冶店濱田家 人形町 1912年」玄冶店は幕府御用達の御典医岡本玄治が所有のこの一帯の借家名「玄冶店」から、濱田家は元芸者の置き屋(最初の女優川上貞奴がいた)の店名を創業者である三田五三郎が引き継ぐ
和菓子店「鉢の木 阿佐ヶ谷 1952年」は鎌倉時代のいざ鎌倉の逸話を題材の謡曲でもてなしの心遣いをコンセプト。なぜかもっと古い洋食店「鉢の木 本郷 1918年(『大東京うまいもの食べある記1933』)掲載の日本橋店も」もありました。同じ由来で季節料理屋「鉢の木 浅草橋 開店年不明」御本家の鎌倉市の精進・会席「鉢の木 鎌倉市 1964年」
宮中の古い言葉からも、「九献(クコン) 銀座 2009年」、確認はできないのですが主水司という宮中の役職飲料水・粥・醤を司る役所の「主水司(モンドツカサ)日本橋 2014年、2019年に飯田橋から移転」
一番多いのが歴史的にみても古い古都、京都。○○京、京○や京の地名をつける傾向が今現代もあります。写真の「京味(キョウアジ) 西新橋 1967-2019年」は裏千家家元千宗室氏が命名したもの。京の味を守ってほしい願を込めて。
◆ 参考文献 ー2022年01月18日追加
◆川柳江戸名物図絵 花咲一男 美樹書房 1994
◆たべもの日本史総覧 西山松之助 新人物往来社 1994
◆江戸東京学事典 小木新造 三省堂 2003・1987
◆大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社 2001
◆江戸学事典 西山松之助ほか 弘文堂 1994・1984
◆料理屋のコスモロジー ドメス出版 2004
◆和食と日本文化 原田信男編 小学館 2005
◆江戸のファーストフード 大久保洋子 講談社 1998
◆カウンターから日本が見える 伊藤洋一 新潮社 2006
◆ベストオブ東京いい店うまい店 文藝春秋社 2010
◆日本の食文化史年表 江原絢子 吉川弘文館 2011
◆東京老舗ごはん 森まゆみ ポプラ社(文庫) 2017
◆東京老舗ごはん 大正味めぐり 森まゆみ ポプラ社(文庫) 2018
◆老舗と味(京都千年9) 原田伴彦 講談社 1984
◆老舗の履歴書1・2 樋口修吉 中央公論新社 1999
◆京の味 駒敏郎 向陽書房 2000
◆京都老舗 米原有二他 水曜社 2008
◆京都老舗名店案内 ぴあ 2013
◆七十五日(国会図書館デジタルコレクションより)
◆江戸買物独案内 1824(国会図書館デジタルコレクションより)
◆江戸高名会亭尽 1830年ー(国会図書館デジタルコレクションより)
◆江戸名物酒飯手引草 1848(国会図書館デジタルコレクションより)