日本人は何を求めどこへ?9
長く愛される店名ー王道かベタ店名か?
・追加2019年3月10日
道具は生活が変わっていけばその価値を失い、博物館いり。動植物は物語やゲームの中でしか生きられない世界がくるかもしれません。
変わらないの自然、空、星、月、太陽。そして人の心、願いは変わりません。
流行の波の中で短い命の店名もありますが、変わらず時代が変わっても付けられ続ける店名もあります。
戦後から60年以上、一回り感が新しい感覚できいたことのある店名が復活しています。
フジとイセの力 ⓢー(追加2017.11.30)
共に近年、注目のまとの地名です。伊勢神宮の式年遷宮、富士山の世界遺産登録がニュースにも何回も登場しました。このふたつは江戸時代でも大人気。
今の言葉でパワースポット巡りになるのでしょうか、富士山登頂やお伊勢さん巡りが江戸時代盛んになっていました。富士塚という富士山のミニチュア版を造り、行くことができない人々がそこに参うという儀式も盛ん。伊勢参りは江戸の終わりに大きな御かげ参りとして歴史年表に掲げられるほどの行事でした。
二つの店名は宗教的パワーのあやかりというわけではなく、伊勢屋は多くの伊勢出身者が江戸で活躍したこと、富士は地名と姓の藤原系につらなっています。
▲ フジ
藤はあまりに姓として多すぎます。ア行からワ行まで揃いそうなくらい。それだけ、藤原一族は栄えたいうことです。
そのうえ、ふじ、フジとして霊峰富士山まで、囲いこんでいます。それだけにどちらか区別もつきにくく、店名として面白みもない感じです。
大企業の富士の名を付けた理由を見ると、「富士通」は前身の会社の一文字を組み合わせ、富士山も象徴としているそう。
お菓子の「不二家 横浜市伊勢佐木町 1922年」は姓が藤井、富士山の古名不二からふたつと無い存在で、日本一のお菓子屋をめざす。
「冨士写真フィルム」は独立創業の工場が冨士山脈連峰下にあったことから。
「冨士重工業」は日本のシンボルとしての富士山のイメージから。現在みずほ銀行の前の「冨士銀行」の名はやはり日本の代表としいの富士山。
テレビ局のフジテレビは創業時は中央テレビジョンから創業者が『日本でポピュラーなものといえば桜と富士山だから(『意外としらない社名の話 瀬戸環』から)』と富士テレビジョン、字画の多さから、子供にも分かりやすいフジテレビジョンへとなりました。
仕事を求めて上京したおり新幹線から見た富士の姿に感動して「日本一の富士のようにになる」と決意したその時の想いが店名になったとありました。(2017.11.30追加)
明治40年の『東京番付案内』には牛肉の「富士山」が2店あります。
『東京市商工名鑑 1929,1933』にも「富士軒 四谷忍三」や「富士グリル 渋谷上通」をみつけられます。
昭和初期のガイドには「富士ベーカリー」「富士パン」「富士アイス 」が喫茶、洋食店を開いていたとありました。
特に富士アイスは昭和初期には繁華街、銀座尾張町、丸の内に大きな喫茶店、レストランを持っていたと載っています。
もともとはアメリカ移民だった長野県出身の太田永福氏が買い取った富士アイスクリームの普及のために大正12,13年の頃から始めました
ガイドには東京の洋食の草分け的存在、一品提供の元祖などとガイドにと書かれていて、繁盛し、昭和30年から40年の間20店舗もあったとも富士アイスのHPに載っています。文化人に人気があったので、彼らが書く文章の中にも多数登場しています。
富士へのあやかり、畏敬の念と苗字がほとんどですが、出身地からのもあります。
最近のオープン店「富士山 水道橋 2014年」は出身地もそうですが、馬肉と富士吉田のうどんを売りにしています。
開店年がわかる店や有名店を挙げていくと、最近の立ち飲みブームで有名な「富士屋本店 渋谷 1880年代」、同店がオープンした洋食店「富士屋本店 渋谷 2015年」。「富士グリル 渋谷 1923年既に閉店」「富士山(岡本太郎画伯の富士山の絵から) 赤坂 1966年」「とんかつ不二 銀座 1927年」定食「ふじや食堂 麻布十番 1927年、1989年に移転」「ふじ家 深川 1947年」「ふじや食堂(苗字が藤田) 大久保 1963年」シチューの店「フジキッチン 浅草 1971年」食堂の「フジストア(藤の花言葉歓迎と富士山から) 吉祥寺 2013年」 昔から絵に描かれる富士山、天正慶長の頃の文書に暖簾に富士の絵が描かれており、終には最初の屋号から富士屋と呼ばれて変えたとか。富士山の力は偉大です。
■ 伊勢
イセは伊勢出身の商人の活躍が江戸時代全体を見ても盛んで、その継続して使い続けてきた店名です。
江戸時代の商人の屋号を文書から集めた『江戸商家商人名データ総覧2010年刊』の載っている伊勢屋の件数は他店数ページから数十ページ程度なのに伊勢屋は三百ページを超えています。
今も続く三井家、日本橋の紙問屋小津商店も伊勢出身。河村瑞賢、大黒屋光太夫らの歴史人物も多数。同様に伊勢出身住友財閥の始祖は京都で書店と薬を商売として居ましたが屋号は「冨士屋」でした。
江戸の食べ物屋の記録では『武江年表1590ー1873』に載っている通名「正直そば」の屋号は伊勢屋となっています。
またざるそばの元祖は「伊せや伊兵衛 深川洲崎」が『蕎麦全書』なかで繁盛していたとあります。
鮨屋では早やずしを「伊勢屋八兵衛 本石町」が売っていたとのこと。
もちろん蒲焼屋も『江戸買物独案内に「伊勢屋権兵衛 麹町」「伊勢屋彦八 京橋鈴木町」が掲載。実際はもっと多くの伊勢屋の屋号の食べ物屋が存在したのでしょう。
新しく伊勢屋の屋号を変えず、継続した家業を変えてもこの伊勢屋を使い続ける店が多いのでしょう。それだけ、世間の伊勢屋に対する信頼感が強いから。最近改修が終わり再開した天丼「土手の伊勢屋 三輪 1889年」が頑張って、続いています。
お客のブログ記事ではここから、長男、本家と次男「千束いせや」三男「蔵前いせや 1972年 蔵前」と三兄弟が暖簾分けして、続いているそうです。
あまりにも多いので屋号と名前の組み合わせがうまれます。今も残る食べ物屋は「いせ源 神田 1830年」「伊勢重 小伝馬町 1869年」「伊勢籐 神楽坂 1937年」「伊勢ろく 神田本店・上野店」鰻屋「伊勢定 京橋 東京諸営業員録1894掲載」。同名の「伊勢定 京橋 1946年」は出身地群馬県伊勢崎市に名前の定で伊勢屋の系統ではありません。
「伊勢廣本店 京橋 1921年」「いせや総本店 吉祥寺 1928年」「伊勢本店 神田 1945年・小伝馬町店2015年」と有名店があり、必然的に多くなっています。
かつてセブンシー(74)という会社が「伊勢門 新宿 既に閉店」は三重県津市からの出店で伊勢の食材が売りでした。他に「伊勢貫 麻布十番」「伊勢庵 横浜市」も続いてオープンしましたが今は閉店。今も本店は津市にあります。他の店では「伊勢陣 恵比寿」。三重県の魚貝海鮮がメイン。
変化球なのは「osse(オッセ) 世田谷区宮坂 2012年」。店主は伊勢出身で、伊勢神宮の地元の呼び方のお伊勢さんから名付けたそうです。
伊勢神宮崖下を流れる五十鈴川からの店名和菓子店「五十鈴 神楽坂 1946年創業」、初代の伊勢神宮参拝時の五十鈴川の清冽な清流に心打たれ命名しました。
新しいのは老舗の出店がおおいようです。(和菓子屋伊勢屋からのリニューアル「ステーキ酒場伊勢 板橋区蓮根 2015年」)
写真はリノベーションの「伊勢利 人形町 2015年」はフレンチ。もとの業種は食べ物屋ではなかったそうですが、店名は継いだようです。
童話の世界の住人達
桃太郎、かぐや姫、不思議の国のアリスは以前、アップしましたが、今長く、使われているのはディズニーアニメの世界です。
個人の意見として、アメリカナイズされた、キャラクターたちはあまり賛成できないですが、最近の『アナと雪の女王』などをみても、もの凄い影響力です。
現在は商標登録が厳しくなっていますので、そんなに気軽に好きだからといって、付けることはできません。
しかし、戦後はアメリカ文化がどっと流れ込み、愛らしいディズニーアニメのキャラ名が数多くつけられていました。
人気の「ピノキオ」「バンビ」「ダンボ」「ピーターパン」脇役の「ティンカーベル」「3月兎」など。
神戸市三宮イタリアン「ピノッキオ 1962年」、脇役のピノキオの親代わりのおじいさんの「ジェペット 神戸市 1991年」も開店しています。
繋がりは不明ですが、新宿・四谷周辺には数店の洋食店「バンビ」「晩美」「仔鹿」の当て字にしたものも。
発音だけはバンビですが、意味はおそらくフランスのワイン、ヴァン、イタリアのワイン、ヴィーノを並べて「ヴァンヴィー」とするワインバーも少なからずみかけます。
動物小説『バンビ』はオーストリアの作家のフェーリクス・ザルテンのものですが、バンビはイタリア語バンビーノ、バンビーナから名付けています。
赤ちゃん、子供の意味で、イタリアンは文化的な普及度合が少なく、この大元の店名も数多くチェーン店「バンビーナ 恵比寿本店 2012年ほかに6店舗」は姉妹店「うしごろ」より、カジュアル路線、若者向きでしょうか。
コミック『バンビーノ』も本家の『バンビ』も先の『ピノッキオ」も子供の成長していく姿を描いていて、お店が繁盛していく未来を夢見る店名です。
耳の長い小象ダンボも当て字「暖母」「暖暮」
もう一つが宮澤賢治の童話の登場人物などからの命名。有名な「注文の多いレストラン」からの発想でしょうか、別にアップした「山猫軒」が一番多いのですが、不思議な言葉が溢れる宮澤賢治の独特の作品世界の店名も使われています。
喫茶店「いーはとーぼ 下北沢 1977年」「ゆりあぺむぺる 吉祥寺 1976年」「ポラーノ 目白 開店年不明」郷土料理店「郷趣(ゴーシュ) 2012年 九段下」割烹「雨ニモマケズ 池袋 2014年」少々驚きの西洋料理とフランス料理店「セララバアド 代々木上原 2015年」など。これらの店名は覚えにくい、読みにくい部類の店名が多のですが、それでもつける共鳴する理由があるのでしょう。最後の「セララバアド」はシエフが世界の有名店「エルブジ」「noma」で修行している方ですが、『学者アラムハラドの見た着物』の主人公が教える小さな生徒の名前が「セララバアド」、この童話の中に流れる誠実さが気に入ってのこと。
みよしや
ネットで検索すると、相当数の店数を数える店名。替え字の応用も多数。三好、三芳、三吉、三佳、三可家、三善、美好、美吉、美良、みよ志家。それにプラス三好野
元は姓名三好、地名三好の両方から、古くは三好野が美吉野、桜の名所吉野山の美称として、よく和歌に出てきます。
明治後期から昭和初期の頃のガイドに和食「三好 神田区連雀町」「「美好 深川区洲崎辨天町」鳥料理「美よし 京橋区大川端町」西洋料理「美好亭 本郷区森川町」他数店が載っていました。字がこれだけ変えられるのは同名のミヨシが相当数存在したのでしょうね。
現在、圧倒的に多い二つのミヨシ、一つ目は「三好弥」は洋食系で、週刊誌文春の連載記事『屋号の探検』に詳しく載っています。
「三好弥 小石川柳町 1919年」を長谷川好弥氏が創業、店名は愛知県、三河出身なので名前と三河を組み合わせた店名。次々と親戚縁者が集まり、修行し、独立して「三好弥」がひろまったとのこと。昭和半ばに130店を数えたそうです。今現在は洋食店としているのは食べログ上では10店位、定食・食堂。とんかつの店も同じ位です。レストラン三好弥、キッチン三好弥、グリルミヨシヤとなっている店も時代に沿ってですね。なお、文春に取り上げられていた直系「三好弥 神楽坂」は2013年に閉店しています。中華メニューもだしていたようですね。
もう一つの和菓子系は最初の店「三好野 芝区田村町(現西新橋) 1886年」で創業から。こちらは昭和初期のガイドに『例の三好野の大衆甘味処』と神楽坂の三好野を紹介しているので、この時期多く甘味「三好野」が繁華街にありました。同じ頃の『東京市商工名鑑 1929年』には6店舗が掲載、浅草店1910年から上野広小路店1916年、本郷1925年のとわっと開店していました。今も和菓子店が残っています。
新しい店は地方から出店した店「東京みよしや 六本木 2014年(宇都宮から)」「お魚ダイニング三好 江東区東雲 (震災で浪江町から避難した「三好ずし」が再開)です。
ただ、由来がはっきりしているのはなかなか、「三好弥」以外ありません。京都の有名な肉割烹「にくの匠三芳 2004年」も調べても不明。
雑誌東京カレンダーには「美好 自由が丘 2003年」「三可家 恵比寿 2004年」の2店、先の和食店はすき焼き「よしはし」から独立したのと名前の一字からか、採っていると思います。後の店は海鮮ROBATAの頭がありますが、由来はわかりません。
同様に『料理通信』「三よし 南麻布 1941年頃」が祥瑞のオーナーの紹介で載っています。
ミヨシはいろいろな賀字を当てることができるのが、最大のよさ。冒頭で挙げたように、和食、蕎麦、鮨、中華、洋食、喫茶店と多種類の業種にわたっています。
せんべい店の「味好堂(ミヨシドウ) 新井薬師 1951年」のような「味よし」「味好(アジヨシ)」のミヨシは全国でみつけることができます。また、伊勢商人の商売の心得、『三方良し』、売り手良し買い手良し世間良しを意味する言葉も隠されているかもしれません。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
人生?じゃなく生活!
店名に人生は大袈裟かなと思いますが、イタリアのスローライフから生活スタイルのような意味が付いてきました。
この店名は最初はポピューラーなシャンソン『ラヴィアンロゼ』、バラ色の人生からフランスをイメージさせる店名として付いていました。映画のラ・ヴィ・アンロゼ(薔薇色の人生)とかドルチェ・ヴィータ(甘い生活)の影響もあるのでしょう。
慣用句のセラヴィもでてきます。英語のライフは保険業や建設関係に広がっていて、あまりにも一般的になり過ぎ気味。この店名は今もあります。
「ラヴィアンクレール」のようなもじったもの、「セラヴィ」、以前書いたフランス人あきらめの言葉、それが人生の意味の店名もあります。
イタリア語ヴィータ、スペイン語のヴィダも濁音で印象も強く、イタリアの言葉不足もあり繰り返し愛用されています。
「LA VITA(ラヴィーターイタリア人の日常生活のような、ドラマのある日常の場所を表現するトラットリア) 四谷三丁目 1993年」「トラットリアヴィータ 府中市 1996年」「ベラヴィータ 新宿 2004年開店」「エノテカヴィータ 飯田橋 2013年」開店年不明ですが、三鷹やほか他の地域にもあります。
「ヴォナヴィータ 代々木上原 1996年頃-2000年」、現在は千石「ヴォーロコズィ」を開いた西口大輔シェフの最初の店。
で、今人気なのは「ラ・ブォナヴィータ 代々木 2014年」で石井資万シェフの店。
味覚の甘い、ドルチェが題名に付いた『ドルチェヴィータ(1960年公開のフェリーニ監督の映画で甘い生活が訳)』が意外に人気です。「ドルチェヴィータ 西新宿 1996年」
同じタイプで「プリモヴィータ」「アモーレエヴィータ 北青山 2006年」「ベルラヴィータ 笹塚 2013年」、どれも意味合いはバラ色の人生と々素晴らしい人生、心地よい生活です。
「BELLA VITA(ベッラ・ヴィータ) 新宿御苑 2004-2014」は以前取り上げましたが、神楽坂に移転し一年後の2015年、和食イタリアンとして、店名も「朱白」と変えています。素晴らしき人生から有為転変、人生はわからない。
羅列したようにイタリアン中心ですが。スペインバル「ViTA(ヴィータ) 中野 2009年」オーガニックレー系「natura vita(ナチュラビータ) 青山 2013年」もオープン。
そういえば、プラスして、もう20年以上前のオープンの自由が丘商業施設「ラ・ヴィータ」もありましたね。
今、多いのはアメリカからひっきりなしに時差なしで来るので○○ライフの生活スタイル系ライフスタイルという言葉が今は当たり前のようにでできます。
再掲のサードコーヒーの「アバウトライフコーヒーブリュワーズ 神泉 2014年」「ライフズコーヒースタンド」。古めの喫茶店でも「ライフ 鶯谷 1950年頃」「ライフ 月島 1959年」「ライフ珈琲店 御徒町」。
アバウトライフコーヒーブリュワーズのHP上の想いの記事で『特別な一杯をデイリーのなかで楽しんで頂くことで暮らしの中に豊かさや幸せを・・・』とありました。喫茶店やカフェにライフは似合うように思います。
「ライフ 代々木八幡 2003年」はスローライフのこと、雑貨・本も売っています。食べ物から生活用具まで扱うのが今のライフのあり方。
山崎製パンのベーカリーカフェ「ヴィドフランス」、ウィキペディアの最後に意味がフランス(国そのもの自体)の人生ではおかしいとあります。別の方の文ではフランス風の生活スタイルだとしています。
毎日の生活・ライフの積み重ねが人生・ライフ、良きライフに良きライフがあります。イメージではイタリア語のヴィータは飲み食い愛する人生、英語のライフはダイエット、健康志向、長寿のための節制した生活、ライフ。日本人はどちらが好み?
プロヴァンスとトスカーナ ⓢー(追加2018.6.7)
パリとローマは当然の如く、多いのですが、地方名のプロヴァンス、トスカーナ地方も変わらず愛用される店名です。
ワイン・オリーブ街道、プロシェットハム、サラミ、はちみつ、ペコリーノチーズと美味しいものも多数。
イタリアンの草分け時代の女性シェフ堀川春子さんのフランセ1階「トスカーナ 原宿 1971年(1968年のガイドもあり)」が最初でしょうね。
その系列で「トラットリア プチモンドディトスカーナ 新宿三丁目」が伊勢丹に2000年代までやっていました。
ガイド本出演が多いのは「トスカーナ 南青山 開店年不明、既に閉店(1990年ガイドから載っている)」
ワイン販売会社エノテカ系列「LA TOSCANA (ラ・トスカーナ) 代官山 2000年」は代官山再開発ビルにありましたが、既に閉店。
現在あるのはチェ―ン店「トスカーナ 武蔵小山1号 1992年」6店、ピサ゜ハウス「TOSCANA 立川 1960年」3店。
新しいのは「オステリアトスカーナ 大井町 2012年」「Clima di Toscana(クリマディトスカーナートスカーナの風土の意味) 本郷三丁目 2017年」
フランスのプロヴァンスは20年以上前にベストセラー本紀行エッセイ本、『南仏プロヴァンスの12か月 ピーター・メイル著 1993年刊』出て、さらに人気になりました。
日本人が大好きな印象派の画家たちがかつて住んでいてたマルセイユ、アルル・アヴィニョン、サントロペ、エンサンプロヴァンス、ニースなどどこかで聞いたことのある町もあります。
ブイヤベース、ラタトゥーユ、有名な食前酒パスティス、ハーブ畑など、南フランスのすべてのイメージがこのプロヴァンスにあります。
開店当初からプロヴァンス料理を謳っている「プロヴァンス・ミレイユ(店名がミレイユのみのガイドもあり) 飯倉片町 1974年、西日暮里に1997年頃移転、既に閉店」が最初の頃のフレンチ店
フレンチ「エクサン・プロヴァンス 南青山 1986年、既に閉店」南フランスの野菜、香料の販売店が開いた野菜フレンチ。
竹芝のインターコンチネンタルも「ラ・プロヴァンス 1995年」。90年代中頃からガイドに「PROVENCE(プロバンス) 目黒区緑ヶ丘 1993年のガイド掲載」はオリーブオイル使用の南仏料理店、「プロヴァンス 三軒茶屋 1994年、既に閉店」、家庭的料理と雰囲気を掲げていました。
現在はイタリアン「イルピノーロ」を開いているスティルフーズの最初のお店は「プロヴァンス 新宿 1995-2002年」、南仏料理店、新宿アイランドタワーの地下にありました。
かつて上野にあったソフィテルホテル東京のメインダイニング「Provence(プロヴァンス) 池之端 2000-2004年」、フランス資本のホテルチェーンのフレンチ、ハーブ、スパイスを使った南仏料理のレストラン
「オー・プロヴァンソー 麹町 2007年」はシェフが好きな南フランスの心地よい開放感をお客にもリゾートにいるようリラックスしてほしい(HPより)想いからの店名です。
「プロヴェンスカフェ 月島 2015年」料理にプロヴァンス名物ラタトゥイーユ、看板にレモン、ラベンダーの花を描いています。
2つの地方は地名ですから、バリエーションは少ないのですが、「トスカネリア(トスカーナ屋の意味) 恵比寿 2010年」
今はオーナー名の頭になっていますが、合併前は「ブション プロヴァンサル(プロヴァンスの居酒屋) 中目黒 2014年」となっていました。
意外とこの二つの地名の店名、フレンチとイタリアンからズレることなくその地名の通の料理を作っています。共に有名な町があり、名産もありの地方ですがまるごとへの愛を示す店名かな?。
この地に大楠が目印の「楠亭 1980年」「ベジブル 2006-2017年」のフレンチレストランの長い時代からのイタリアンへは時代の流れのひとつでしょうか?。(2018.6.7)
移転情報で発見した「Provencale(プロヴァンサル) 歌舞伎町 2005年、2018年西新宿移転」は立ち呑みフレンチのハシリで南フランスプロヴァンス大―好きシェフの店。
オリーブの木
もともとは聖書からの引用で、大洪水で神罰を受けた人間、ノア一族だけが方舟で逃れます。洪水後鳩を飛ばして、オリーブの葉を加えて戻ってきて、大地がよみがえったことを知る逸話からです。象徴的には神と人間の和解を意味するできごと。
次に力を与えたのは若者のファッション雑誌『オリーブ 平凡出版 既に廃刊』はアニメ『ポパイ』からヒロインの名前から採っています。
「オリーブ 高知市 1967年頃」が雑誌に残る古いい喫茶店、今もあるかはわかりません。
東京でブログでは「珈琲オリーブ 豊島区南長崎」がよく挙がっています。昭和ムードいっぱいとか。ほか「オリーブ 月島」「オリーブ 住吉」
チェーン店も多く中村屋の「オリーブハウス 1号店1982年」、ドトールコーヒー系の「オリーブの木 1号店1985年」「麦とオリーブ 外苑前 2008年、既に閉店」
南青山の「オリーブ亭」は欧風料理屋、表参道の露地に同様の「びすとろだるぶる 1981年」は八百屋の店頭のように野菜類が並べられているのが、目新しく、向かいの「レストラン35(サンゴ)」と共に不思議な空間を作っていました。「オリーブ亭」は小川軒出身のオーナーシェフでした。
新しい店はバルの「ラ・オリーバ 六本木 2012年」、地中海料理「オリーヴァ(イタリアンのカメレオンの元シェフのお店) 学芸大学 2015年」
オリーヴァはオリーブの実のこと、古代よりに深く根付くこの地中海地方諸国をリスペクトしての店名。
上のプロヴァンスも頭に付いた「ラ・プロヴァンス グルマン・オリヴィエ 学芸大学 2004年」は辻調グループのHP上にオリヴィエはオリーブの樹、南仏の特産、平和・英知の花言葉となっていました。
チェーン店はスパゲッティ、イタリアンが主ですが、洋食、パン屋、デリカッセン、フランス、バルにも広がっているオリーブ。
以前、材料項目で「オーリオ(Olio、オリーブ油のこと) 新橋 2003年、既に閉店」をアップしましたが、他に「OLIVE 恵比寿 2018年」「オリーブオイル 九段下 2019年」「銀座オリーブ 銀座 2019年」。一番凄いのは70種類以上のオリーブオイルとのペアリングメニューのある「オリヴァヴァ 四ツ谷 2018年」。
イタリアン、南仏料理だけでなく、カフェ「おしおりーぶ 日暮里 2014年」ラーメン「むぎとオリーブ 東銀座 2014年」にも拡散中です。
ラーメン店は相当数、食材としてオリーブ油を使ています。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
はな・花・華・HANA (追加2016.9.10) ⓢー(追加2018.1.3)
花を飾る芸事、華道(生花)という芸術分野も中世あたりから、始まっていました。
神事、仏事の諸行事に松や榊や花(主に樹の花)を飾る事、立ち花(理論、様式が定まると立花(リッカ))と呼ばれています。
京都六角堂池坊専慶から華道として成立からわかるように、寺の仏前供花が最初。そのため武士や公家の儀式のためのものであり、一般庶民は花を飾る習慣は長い間定着せず、花を贈る習慣もありませんでした。
西洋ではギリシア・ローマ神話の中でヒアシンス、水仙、ヒマワリ(今のヒマワリとは別種)、アネモネ等の人間(正しくはニンフ)からの変身の物語が絵画や彫刻で表されていました。
宗教画でも百合は聖母マリアの象徴など花に意味付けが盛ん。
トルコの花を贈る習慣が西欧に伝わり、17世紀あたりから、先のギリシア神話やキリスト教の歴史の中でイメージが作りだされた花言葉が盛んになりました。
日本では、明治期から貴族の中では、室内に花を飾る西欧習慣がありましたが、一般市民にはつい最近の西洋化の波がやっと届いたような感じです。
年配の方は花を飾られると仏さまになったのかと極最近まで、嫌がる傾向が残っていました。
特に草花は菊を除いて、注目されずいました。芸術分野で見ると、西欧は花瓶に挿した草花の静物画多いのですが、日本は障壁画です。
建物の一部として、室内中に樹の花々、マツ、梅。牡丹、桜を地上にある自然のままの姿を描き、四季を楽しんでいました。
ただ、家紋の世界は別で、大量の草花がみつかります。桔梗、竜胆、沢潟、撫子など。他の器物、動物紋と比べても、家紋の植物紋は3倍以上あります。
世界に出ていっても、日本人の植物大好きは、かわりません。いろいろな世界の花を見つけ、その名を好んで、店名につけています。
また、地方の観光地では季節ごとに、お花畑、チューリップ、菜の花、ラベンダー、ひまわり、コスモスなど名所になりSNSなどで人気です。
その総称の"はな"、昔は太郎君と花子ちゃんとして、女の子の名前の代表でした。今も子が付かない名前が愛されています。
江戸末期の会席即席御料理番付には「花屋(重兵衛) 浅草」を見つけることができます。明治末期の案内は「花屋 神田 1890年」「花屋 浜町 1892年」
『大東京うまいもの食べある記1935年』では和食「花屋 浅草」」牛肉「花家 大塚」
日本料理店「花家 池之端」「はなや 池之端」は『味の東京 1956年』のガイド本に載っています
同じく日本料理「花家 西神田 1970年」。両方とも駅近くブログ上にたんさんの焼きそば「花屋 田原町」喫茶店「花家 鶯谷」甘味食堂「花家(元の商売が生花店、花屋さんから?) 西日暮里 1945年」。創作和食「華屋 広尾 2012年」
店名では一字店名が多い鮨屋には登場が遅く、なぜか天麩羅屋に花のつく有名店が多いです。
天麩羅屋は実に多くて、移転はしたけど今もあるお座敷天麩羅店元祖「花長(東京名物志 1901年 には「花家として載っています。) 1887年 日本橋浜町、移転大田区東糀谷」、「花むら 赤坂(最初は上野広小路で) 1921年」「花野や 銀座 1929年」「花むら」は天婦羅好きの新聞記者の主人が当時の有名店「花長」と「喜多むら」の店名から頂いた店名。
『天ぷら物語 露木米太郎 1971年』では「花のや 銀座東小路」花月の支配人が主人の「花亭 銀座」高級天麩羅屋として載っています。
江戸時代後期の江戸前握りずしの完成者華屋與兵衛は「與兵衛寿司」として名前で呼ばれています。華屋寿司ではありませんでした。
鮨屋は特に男性板前の世界の雰囲気があり、付けにくかったのでしょう。とはいえ、『東京商工名鑑』に2店「花すし 富岡 1895年」「花寿司 白金 1919年」 。大正の鮨番付にはありませんが、1963年の名簿には相当数載っています。
華屋与兵衛は現在は和食ファミリーレストラン「華屋与兵衛 新松戸1号店 1986年」160店舗以上です。由来はもちろん握りずしの完成者華屋与兵衛の名から、鮨とうどんをメインのメニューでしたから。
『大人の居酒屋 1998』には「花 北青山 1995年」「花 大岡山 1997年」、女性客が多いとありました。
洋系のフラワー、フルール、フィオーレは少々、劣勢です。日本語ハナが圧倒的に多い。
郊外型と呼ばれるレストランのハシリのジローの洋食店1号店「フィオーレ 藤沢市 1978年既に閉店」東武ホテルのブッフェ「フィオーレ 銀座 1987年」「銀座レフルール 銀座 1997年」花屋の中のレストラン。
雑誌料で人気なのは「ダ・フィオーレ 表参道 2003年」野菜とエディブルフラワー、たべらられる花で盛りつけられた皿は華やかです。
「フルールフィオーレ 神楽坂 2014年」は新しいです。仏語と伊語で花・花。
仏語のフルールはカフェ・喫茶店が多いです。伊語より早く使われ、少々手あかが付いた感があるのかもしれないですね。
かつては、サンジェルマン通りの像、花の女神が由来のパリの「カフェドフロール 1885年」は日本に一時期、ありました(カフェドゥフロール 神宮前 1995-2001年)が・・・。
洋食系は「ビストロ・ド・ハナ 渋谷 1975年」、1970年代のガイドによく載っていて、その頃ではめずらしい女性同士で行けるビストロでした。
食べログからの洋食系、「華 西荻窪 1992年」夫婦で営む欧風料理店、イタリアン「シブヤガーデンハナ 渋谷 2009年」「オステリアハナ(Hana) 亀戸 2015年」鉄板焼き「花 代官山 2016年」。
花をイメージする場所+の店名も多数。花の茶屋、花園、花苑、花里、花郷、花の家等。
赤坂の「花むら」も姓名ではなく、地名にもあまりない店名。ハナは地名では土地の先端、端のほうの場所を表すそうです。
料理名+は「魚花 巣鴨 1919年」は古いですが、ほとんど新し目の店名です。「花麺」「花茶坊」「小米花」「米花」「粉花」とんかつ「かつ花」など。
で華の字を持つ「華や 田園調布 1960年後期」「華花(ハナハナ) 渋谷」「華 根津」は中華料理の意味だと思います。
「吉華本店 上野毛 1985-2016年」は長くガイドに載っていた陳建民氏のお弟子さんの四川料理店。お名前の大吉さんと中華の華の字の組み合わせの店名と思います。
華の字は花より艶やか、華やか目立つイメージ。2017年オープンて評判の「茶禅華(サゼンカ) 広尾 2017年」は和魂漢才を謳う中華料理店。茶と禅の一体の日本文化、日本の食材、料理方での中華料理で「華」は中華料理の意味。(2018.1.3)
花は具体的な花「桃花」「桂花」「花梨」「杏花」と使われる事例が多いようです。
銀座の「樹の花 1979年」はジョン・レノン夫妻が訪れた店とよく書かれいてます。由来はコーヒーの樹の白い花と植物図鑑『樹の花 山と渓谷社』からでした。
「食彩酒房壱花(イチハナ) 祐天寺 1996年」、ひと花咲かせようの合言葉からの店名、フケンチベースの居酒屋。
「花の木」は以前に取り上げた伝説の志度シェフが働いていたフレンチ。そして、繋がりはないと思いますが、ファミレスのロイヤルホストが発祥のフレンチ「花の木 福岡市 1972年」
漢字の花(カ)は多くて、カの当て字として愛用しています。
ついこの間、1947年に日本に来たアジア象の花子が亡くなったニュースがありましたね。
「アンアン」「ポパイ」「ブルータス」「オリーブ」と名前が多いマガジンハウスの「Hanako(ハナコ)」日本代表としての女の子の名前からだと思いますが、同社のライバル集英社「NON-NO」も実はアイヌ語の花でした。
四季・春夏秋冬 (追加2016.9.10)
春は初めを好む日本人には倍加して大好きですが、以前は実りの秋も好まれていました。
萩、紅葉、柿などの果物の収穫、マツタケなどの茸類。でも今は世界中からの食料の輸入や保存技術の進歩で秋を待ちわびる気持ちがなくなりつつあります。
グローバルな現代はハローウィン、ボジョレーヌーボの解禁(11月第3木曜日)、クリスマスなんていう外国のものへの関心が強いようです。
コマーシャリズムの影響は大きいですが、冷暖房完備な生活の中で四季を楽しむ心情はこれから、残っていくのでしょうか。
資料で確認できるのは江戸時代の料理屋「四季庵 中州(今は埋め立てられありません。) 1781年代」浮世絵に四季庵の酒宴の図が残っています。
西洋料理や中華・和食を選べた「四季コックドール 銀座 1947年」もよく雑誌や小説の舞台として載っていました。
あんみつの月ヶ瀬という会社が「花の木」のシェフ志度藤雄氏を向かえて経営していました。
ただ、音が地味目のこともあり、今多いのは頭に付くサブ店名的役割をしています。使い方も和食系、洋食系はっきり、分けられています。「四季庵 銀座」「四季亭 永田町」「四季 新宿」「四季のバル 新橋」「四季のおでん」チェーン店「四季の宴」「四季の蔵 錦糸町」「四季香 池袋」四季料理 四季膳「四季の味」「四季の食」「四季処」「魚四季 築地」「四季彩」季節、季も同じ意味として季節料理、季彩や、「季の庭」「四旬季 恵比寿」「季よせ」
四季の代わりに具体的な春夏秋冬、春秋の店名、1980年代後半から、季節をわかりやすく、印象付ける「雪月花」も使われ始めます。鮨屋「春夏秋冬 渋谷 1990年」居酒屋「春夏秋冬 六本木 1999年頃」など
洋系はシーズンのほかに仏語のセゾン、伊語のスタジオーネも使われています。ただ、店数は少数。昨年オオープン、スペイン料理店「エスタシオン 神楽坂 2015年」が珍しく意味がシーズンの店名。(渋谷のカフェエスタシオンは駅の意味)。南欧系の料理は季節感を求められない、ガッツリ、ドッサリ、お米がある等なのかも。
シーズンはホテル名やビルエリア名に押され気味です。はっきりと四季の店名の由来は発見できないのですが、例えば「4 Seazons LDK(フォーシンズンズエルディーケイ) 東中野 」は季節の食材とくつろぎのデザイナーズ空間。
「フォーシーズンズ壬生 栃木県壬生町」のように庭の造作を含めて四季折々の季節感を感じてほしい、のように四季を料理や内装で表現したゆえの店名が多いのでしょう。
ほかに写真の「4/4(オールシーズンズ)コーヒー 新宿三丁目 2015年」「四季茶坊(フォーシーズンカフェ) 新宿三丁目」「オールシーズンレストラン 六本木 2012年」
有名なのは帝国ホテルのカジュアルレストラン「レ・セゾン(Les Seisons) 日比谷 1983年」。リニューアル時に、2階のグリルルームを現代フランス料理(1970年代はヌーベルキュイジーヌ、今はこの言葉は使わないそうです)をだす女性を意識したフレンチレストランに改修しました。(帝国ホテル120年史より)
由来は不明ですが、現代フレンチは新鮮な材料を軽く調理するのが主流ですから、季節をイメージした仏語の四季になったと思います。
今は「レストランまつもと 高円寺」となっている「ビストロ・セゾン 曙橋、移転赤坂 1978年頃」。雑誌には欧風料理の巨匠とあり、その味をお客に長く愛されているようです。。今でも此の味を求めて探すお客がいるらしく、「レストランまつもと」のHPにはわざわざ、ビストロセゾンの一項目があります。
季節を意識するのはスイーツの世界、和菓子が特にはっきりしていますが、店名にはなく、洋菓子に「テラセゾン 渋谷 2005年(池尻ラ・テールの支店)」「フルーフ・デゥ・セゾン 末広町 1995年」「キャトルセゾン 千歳烏山」「セゾンファクトリー 山形県高畠町 1989年会社創業」
写真は食べログ上一番古いレストラン「セゾン 池袋 1974年」
四季は最初は花、月、山水のように季節を愛ででの店名でしたが、季節の境があいまいな都会の生活では、現在は材料、料理の形容詞、頭に付く肩先店名に同化したものが多くなっています。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
ノスタルジーと子供時代 (追加2017.02.12)
偶然、二つの店名に出合いました。外苑前のフレンチ「パスタン 神宮前 1964年」と居酒屋「ちゃい九炉 秋葉原 1号店2009年」
パスタンは一度取り上げていますが、過ぎた時、ちゃい九炉はHPから、チャイルド クロック、子供の時代。共にノスタルジー、郷愁、あまり未来志向の明るい感じはありません。
少なくても江戸時代にはなかった店名。
二つの言葉、過去への思いは郷愁、人の思い、ノスタルジアと古いものへの懐古趣味、レトロがあります。
ノスタルジアは大正、昭和初めから、レトロは1980年代以降でしょうか。食べログの記事には大量の昭和レトロの言葉が氾濫状態。メニューも昭和レトロの匂いのするコッペパンやナポリタンの専門店もオープン。1948年発売の焼酎割飲料ホッピーも復活しています。
物と現象に分けられる世界、大量消費時代のブリキやセルロイドのオモチャ、オマケが高価なものになり、今は少量希少なものがもてはやせされる時代。
大人買いとして、子供の頃のグッズを買ったり、ひとより一秒でも早く、希少なもの、手に入れにくいものを所有し、SNSで競う世界なんです。
樫は日本では、イギリス王室のように紋章(王室のシンボルオークの実)になったりはしていません。
老舗は「どんぐり舎 1974年か?1975年? 西荻窪」HP記事を読むと木造り、ゆるい雰囲気、珈琲の味が思い出に残ってほしいそうです。(由来はニライカナイ(大塚)をみてください)
カフェは古民家のリノベーションが多いですがその一つです。「カフェつむぐり 浅草 2015年」、ドングリの古語からの命名です。なぜドングリかはお店のHPに詳しく載っています。
里山の栄養源のドングリのように栄養源となる心のくつろぎを与える場、要約すると・・・。
同様にくぬぎ、ドングリの古名つるばみから「ホットケーキつるばみ舎 経堂 2015年」
こちらは思い出のホットケーキを焼くカフェ、閉店した「万惣フルーツパーラー 神田須田町 1927-2012年」でホットケーキを焼いていたオーナーが最初は「リトルツリー 梅ヶ丘」、移転して現在のカフェで『みんなの思い出の味』を表現している。
ドングリから煮だした橡色は薄茶色。焦げ茶色なので、ホットケーキの色のイメージでしょうか。
遠く奈良県の「クルミの木 1984年」、オーナーの著作物も多数あります。店名は子供の頃に夢として作文にあったおじいさんもおばあさんも誰でもやってくる「くるみの木」というお店を開きたいという想いから。
東京では「クルミドコーヒー 西国分寺 2008年」がよく雑誌に紹介されています。クルミをテーマに自然素材中心のカフェです。(2017年に2号店「胡桃堂喫茶店」をオープン。店名は昭和ノスタルジック)
クルミはレトロ感を盛り上げる、「クルミ堂 経堂 2010年」は古い電化製品、給食の食器も含めおもっきりの昭和気分を盛り上げています
場所名は一番早く、ノスタルジー、レトロが満載。「田舎」「古里」「古家」「母家」の店名がノスタルシー感を駆り立てるグッズ類と共に、こけし、蓑笠道具、郷土の酒、郷土料理で癒されていました。
前のアップ店「本格珈琲昭和 池袋」「駄菓子バー」もレトロが売りでした。「昭和」を冠する店名も多くありますが」「レトロ」の店名も出てきています。古民家のリノベーションイタリアン「レトロ 麻布 2011年」昭和感満載とある新潟郷土料理店「和菜れとろ 2001年」。HPに詳しく説明文を掲げているのが「レカフェレトロ 早稲田 2001年」、仲間と素敵なモノと過ごした時間が流れた後に変わらずある空間の雰囲気がレロトと考え、モノより雰囲気で1階と地下の間に不釣り合いな階段を設置して、集まる時の一人一人に思いでにふける声をかけやすい場を造りだしているそうです。
フランス菓子のカリスマの「オーボンヴュータン 尾山台 1981年リニューアル2015年、看板にAu Bon Vieux Temps KAWATA Père et Fils と父と息子が追加になりました」の店名はパティシェの修行先での研鑽の日々の9年間の『思い出の時』
吉祥寺には「思い出 1947年」の季節料理店も。 日本家屋の象徴の縁側、マンション住まいの多いこの頃はやはりノスタルジック。
「せたがや縁側カフェ 松陰神社 2010年」、以前取り上げた「パテ屋」の敷地にある「えんがわinn 田園調布 2012年」、有形文化財の昭和の家のカフェ「縁側カフェ 竹ノ塚 2014年」。「「えんがわ」と付く結構な店数が京都も含め存在します。
デジタルの世の中、乗り遅れ組にいわれるアナログ人間。「アナログカフェ 恵比寿 2008年」昭和レトロ、ノスタルジックな癒しの空間作りとありました。新宿店も「アナログ新宿 2012年」
「アナログ」を経営しているのはアテック(attic)、同名の「アテックルーム 渋谷(新宿にも) 2005年」も屋根裏部屋カフェと称して、子供時代のワクワク感がよみがえる作り。
ザリガニ釣りで遊んだ子供の頃の記憶からの店名「ザリガニカフェ 宇田川町 2000年」はカフェには珍しく15年以上、昔の遊び場を思い出す場所、またここに戻ってきてほしいところと今は食べログの記事上にあります。
ビジネス系居酒屋「ビートル(BEETLE) 蒲田 2015年」も昭和アナログ世代、平成デジタル世代に向け、子供時代に夢中になったカブトムシの蜜に集まる習性のように夜の居酒屋に集まってほしいそうです。
曙橋カナカナ 2018年開店
品川区小山小さかった女
2014年開店
すぐ閉店してしまい残念でしたが、「レストランカナカナ 曙橋 2018年」は蝉のヒグラシの鳴き声で、シェフの忘れがたい思いでの中にある大切な記憶の鳴き声、お客にもおなじように忘れられない時をすごしてほしい思いの店名。
カフェ「小さかった女 品川区小山 2014年」も子供時代をイメージする店名。画題のストックメモから選んだ店名
もう一つの世界は昔流行った音楽や映画の題名、でも近頃はどちらもリバイバルが盛んです。
特にテレビのシリーズ物は『スーパーマン』『バットマン』『スパイダーマン』のアメコミものが多く3D技術、特殊加工でよりリアルワールドの映像。しかし、商標の件もあり現在はあまりありません。
怪獣物の『ウルトラマン』、付けたい方は多数、存在するのでしょうね。かろうじて、「うる虎」「ウルトラ」「ウルトラ5」「ウルトラチョップ」「ウルトラモンスター」でクリアしている店名。既に閉店していますが、名古屋発の最強の怪獣名で「舌吞(ゼットン) 名古屋 1995-2004年、東京恵比寿店2001年」もありました。
人気ラーメン店「バッソドリルマン 池袋 2008年」は以前の店名は「ゼットン」、同じくウルトラマンを倒したこの怪獣名でした。
アニメ『アトム』『鉄人28号』『ガンダム』もコラボの店はありますが、ネットで評判になるのは無理でしょう。街中に隠れるようにひっそりとあるのは見かけますが・・・。
映画名は昭和レトロ化して喫茶店はわずかに残っています。「シャレード」「シュベール」「シェルブール」「フルフル」なぜか女性が主役の名前がのこっています。
カフェ界のカリスマの「カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュ 鎌倉 1994年」はよくぞこんなに言いにくいのを選んだと思うトリュフォー監督のフランス映画名。
ママは偉大な力 (追加2017.02.12)
この店名は今まで味わったことのない最先端の料理を作るイメージとは真逆の、食べ慣れた日常の惣菜料理をつくる女性の作り手のイメージです。
男女平等の意識が強くなり、女性が食事の支度は当たり前の世の中では現在はありません。
おふくろの味とかマンマの味は郷愁のの幻なのかもしれません。マックドナルドの味が自分のおふくろの味と豪語するタレントもいたような・・・。
それでもなお、店名にはお母さん、ママの店名がなくならないですね。赤ちゃんのの頃からの母親とのかかわりは影響が大きいですから。
頭に家庭料理、おふくろの味という言葉がつくのもお母さんの味を売りにしている店が多いです。
あまり雑誌等に載っているのは少ないのでまた、食べログから拾うと、「おふくろ 椎名町 1972年」が古い店、「おふくろさん 東池袋 2014年」が新しいところ。「おふくろ(OFUKURO) 明大前 1971年頃」のようにローマ字表記もありますね。
お母さん、かあさんでも、チェーン店「居酒屋かあさん 東京12店舗 会社の創業1978年」、全国でも「おかあさんの台所」「お母さんの定食」数々あります。
外国語も多数、ママはほとんど日本語ではありますが・・・。
「グリルママ 町田 1957年」はネットでは昭和レトロチック、老舗の貫禄の洋食屋とあります。学生街の「キッチンマミー 神保町」も洋食のデカ盛りで学生のお腹をいっぱいにしています。「Bonne Maman(ボンママン) 池袋 1994年」いいお母さんの意味、フランス版おふくろの味の家庭料理。
アップルパイ専門から始めたチェーン「マミーズアンスリール 春日 1995年」はママの「笑顔」を追加しています。
無国籍料理店「ママス 青山一丁目 2000年」は「ふとっちょ母さんのお店」とショルダー店名つき。HPではママスは近所のお母さんが集まる場所の意味としています。
おふくろの味とあると何となく男性客中心かなと思えますが、ママ、ママン、マミーは「ママンカフェ 昭島市 2013年」のように手作りの雑貨も並べると、お母さんたち、ママたちのが入りやすいイメージを造りだせます。優しい先輩ママが居そうで、実際オーナーは女性です。
食べログ開店年を手繰っていくと、2000年代はなぜかアジア系、韓国、中国に多くなっています。韓流ブームの影響もあるのでしょう。
「オムニ食堂 西新宿 1984年」「オンマキッチン 新宿 1989年」
2000年代のダイニング系で色々な国の料理と言葉が溢れていた時も「フジヤマママ」「アジアンママ」の店名がありました。
ままの言葉自体がまんま、飯を意味するのでママと付くのが全て母親の意味ではありません。
向田邦子さんの妹さんがやっていた「ままや 赤坂 1978-1998年」はたぶん『飯屋』の意味でしょう。
食べログ掲載の「レストランママ 表参道 2015年」は『素材のまま(MAMA)』の味を大切にしているそう。
ミシュランであっという間に星を取った少し変わっている店名「bon.nu(ボニュ) 代々木 2015年」。こちらは赤ちゃんが最初に味わう『母乳』からで、飾らない原点の味を目指す命名。(HP上でオーナーの来栖けい氏が詳しく語っています。)
作り手のママではなく「ラメール(La Mere) 赤坂 2015年」女性の活動の支援の団体法人が関係するので、意味は羊水のフランス語、落ち着いた居心地の良い空間の提供を目的としている店名。仏語・伊語の発音は海もあるのでわかりにくいです。
同様でおばあちゃん、グランママ、グランマ、グランメールも、「グランメール山王 大森 1979年」が古いレストランです。新し手は「グランマキッチン 石神井 2016年」
それこそ、大地ノ母とか、もっと大きな存在感があります。
フードビジネス系が多く、モスバーガーの紅茶店「マザーリーフ 東銀座 1999年」イタリアン「マザーズ 東大和市 2001年(ほか立川、吉祥寺店)」六本木ヒルズ内「マザーズ(改名マザーズ食堂から) 六本木 2012年」。
ただ、「マザーリーフ」のマザーは母の意味ではなく、新葉になる前の先端から出始めの二葉のこと、紅茶の摘みたての美味しさを表している店名。
オーガニックを扱うマザーズスーパーマーケット(1984年創業)のレストランもかつて神保町と門前仲町にありました。
同様に「マザークルック 原宿」、一時期雑誌で多く取り上げていました。クルックはフィンランド語のきゅうり。
オーガニック系のエコ活動プロジェクトの一環でレストランを経営していて、最初「クルックキッチン 元麻布 2006年」途中でマザーが付きました。
エコに敏感のな人だけでなく、誰でも入れるい居心地の良い空間と等身大のおもてなしをコンセプトとしてリニューアルオープン。「クルック」は一般でいう会社名なので、「マザー」がそのコンセプトを表していたのでしょう。今は休業中。
喜楽・きらく・KIRAKU (追加2019.3.10)
喜びと楽しみはともに楽器を起源にする漢字です。喜は神を喜ばすための太鼓、楽は鈴,手鈴を持って舞を神にみせて、喜ばせる姿でした。裏には同音の気楽の意味(のんびりと苦労なく居られる事)も当然込められていますね。
その人気者二つを組み合わせた喜楽も明治時代からよく店名に登場したいます。有名な料亭も名を残しています。
「新喜楽」は超の付くつく高級料亭で庶民には縁がない店ではありますが、マスコミ的には芥川・直木両文学賞の決定場所として登場しています。
政財界と強いパイプを作った女将の力が絶大な料亭は最初は「喜楽」として日本橋区葭町に1875年に創業、築地の大隈重信邸後に移転で「新喜楽」として続いています。
同地にある「喜楽鮨 築地 1954年」は新喜楽から喜楽の名を受けています。鮨屋は他にもっと古い「喜楽寿司 経堂 1937年」や「喜樂壽司 赤坂区仲町 1922年ガイド本掲載」
いまもある天ぷら「喜楽 神楽坂 1900年代(3代目100年以上前)」牛肉屋「喜樂軒 芝 1912年」
中華の「喜楽」は全国でも多い店名東京でも食べログには「喜楽 東中野 1967年」「喜楽 松陰神社前 1985年」「喜楽 吉祥寺 1970年代(40年以上前)」
広い範囲の応用力を持ち、洋食もフレンチもあり、洋食は漢字よりもカタカナ、ローマ字表記が多いです。
洋食「喜楽 京橋 1923年」「喜楽 浅草新吉原 1933年商工名鑑掲載」「喜楽 駒込坂下1933年商工名鑑掲載」和洋食堂「キラク食堂 浅草区 1933年商工名鑑掲載」
戦後すぐの開店のベトナム料理店「喜楽南(ヒーラクナム) 新宿 最初赤羽1946年、1954年に移転」、料理を楽しく食べてほしいとの願いでベトナム語の同じ意味になる喜楽の漢字を当たて、南はベトナムの南方地方の料理ということで付けたそうです。
喜楽のもう一つの音の意味気楽もあります。気楽に入って気楽な料金の焼肉屋「きらく亭 白金 1996年」、気楽に来てほしいコンセプトのフレンチ「kiraku 江戸川区中葛西 2005年」
確認はできないのですが、お客のブログに人形町洋食店「キラク」も『気楽に洋食を・・・のコンセプト』。 チェーン立ち蕎麦「いろり庵きらく」は気軽にはいれて気楽なお値段がコンセプト。全国でも大阪のうどん、カツ、お好み焼きやを展開の「きらく」
いろいろな字、特に喜の字を変えて「木樂」「貴樂」「奇樂」「嬉樂」楽を変えて「喜洛」「喜良久」「喜良喰」
全国では亀の字の「亀楽 神戸市 1931年」「亀楽 草加市 1969年」の煎餅屋があります。新しいパターンでチェーン定食屋「おきらく食堂」や焼き鳥店「お㐂樂(オキラク) 麹町 2017年」、支店ももあります。
「きらく 宇都宮市 1955年」は甘味屋喜楽から始めて今はステーキ店『気楽ではなく人喜んで我も楽し、これが喜楽なり』と掲げています。懐石「喜らく 京都市伏見 1921年」は『お客に喜んでもらい楽しませる料理』。
奇抜な変化は横浜の洋食店「綺・Luck(キラク) 横浜市 1947年」、最初関内にあったころは「キラク」、2006年、紅葉坂に移転に伴い字替えをしています。
居酒屋「呑喜 三鷹 1964年」は字の通りお客さんに呑んで喜んでもらえるように。
現在は「ビストロデノンキ 日本橋 1951-2018年」パスタ「nonki 秋葉原 2007年」。「ビストロデノンキ」は創業時は「蒲焼 のん㐂」で1998年の業態変更。美味しいものを楽しんでと、のん㐂の意思を継ぐ想いを込めての店名。
「もつ焼のんき 葛飾区堀切」から暖簾分けしたフードビジネス系の「のんき」が多数。「のんき亭」や「のんき家」等平仮名が多いですが字替えも「のん季」「呑ん気」「のん木」「呑来醍」、呑むの字が居酒屋に好まれていますね。
カフェの「ease(イーズ) 原宿 2002年」洋食「コンフォルターブル 浅草橋 既に閉店」イタリアンが多いですが、「コモディータ 白金 1992年」「LA COMODITA(ラコモディタ) 小川町 2003年」「コモード 三軒茶屋 2010年」「コモド 恵比寿 2012年」皆、コンセプトは心地よく快適、気軽に。
以前もアップしたフードビジネス系のイタリアン「AGIO(アジオ) 1989年」はイタリア語の古語で同じく気軽に快適にです。
少し分かりにくいカフェの「t.e.e.studio(ティースタジオ) 洗足 2011-2013年(現在は故郷の神戸へ)」は『take eat easy』の略、気軽に食、食事を。食事はセレモニー的でもありますが、日常の方が圧倒的に多い大切な時ですから。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
数字 十・百・千・万
数字は古代から現代までもとても重要なものです。数字で算定される暦が古代社会の重要なツールで、宗教、政治の利用に欠かすことができなかったのです。
現代社会を動かすコンピューターシステムは二進法でできていることは何か、不思議な気分になります。
日本では最初にの頃は偶数が良く、奇数が不可とされています。仏教も四大(地・水・風・火)四天王、六根清浄、中国の儒教の四徳等。一番嫌われる四も武士階級の登場からいつ死ぬかわからないことで意識するようになったそうです。奇数の九は苦労するとして嫌われています。今も残る子供の七五三の行事は江戸時代綱吉の頃から、この年齢に育った事への神への感謝と、悪いことが起きないように神社に参るもの。
西洋は均整のとれた世界を好み偶数を、東洋も陰陽の思想で、二つそろうのが完全な姿、ただ日本では商売的には偶数は割れるので嫌われて祝い事に避けられ三五七が多用されいてます。
数の単位はいろいろな変化が付けられ、面白い店名があります。人の長寿を祝う喜寿、米寿、白寿もシャレがきいてすますね。
十 (追加2016.9.10) ⓢー (追加2021.12.20)
数字の基本は人間の手足の指の数、10本を基本として、何もない0という数字の観念は古代インドの発見。
店名は十字屋、十文字屋当りが古い店名。十の字は十分、充分、重など商売として好かれる字と重なるものがおおいです。慣用句の「十干(ジッカンー十干十二支、生命の根幹をあらわす10個のもの) 赤坂 1990年」「十徳 新宿 1985年頃」からもありますが、多いのは食べ物屋は以前アップした料理の焼ける音、ジュウ、ジュウがよく出できます。「十十屋」「肉十」など
十割そばの頭を付けて、そば粉のみを使用の謳っている蕎麦屋、「10colors(テンカラーズ) 飯田橋 2010年」のように十種のワインをそろえているイタリアン。
おそらくダジャレ?薬膳の8、9(ヤク)と続けて「10ZEN 品川」もあります。
10は覚えやすく区切りの良い数、地名にも十日毎に市が開かれていたため、十日市場とか、十日町の地名が残っています。
10年ひと昔ということで、以前アップしたパン屋「ダンディゾン」、パティスリーがオープンして10年過ぎたことを区切りとして、10年の意味のカフェ「ディゾン 神保町 2015年」があります。
変わったところでは「10°(ジュード)カフェ 高田馬場 2010年開店」、日常からほんの少し軸をずらして癒してほしいコンセプト。
十文字は家紋では薩摩藩島津家の家紋です。鎌倉時代から使っている紋で江戸時代に丸に十の字になりました。二匹の龍を表すとか、護符の意味があるとか由来はいろいろ。
東京を含め全国にある丸十製パン・丸十ベーカリー。最盛期は150店位ありました。
大正初めにパン作りを開始した、アメリカで修行した創業者の田辺玄平氏の苗字の一字「田」の字を分解して口部分を丸にかえたものです。
以前アップした「白十字」もアメリカ帰りの田口義一氏が1921年(大正10)に神田三崎町で開業していました。由来は不明と書きましたが、案外同じ由来なのかも?。
三鷹丸十ベーカリー 1919年
神田白十字 1945年前後-2019年
十字路の調べ中、「丸十ベーカリー」と「白十字」のなかに両店とも家紋からという由来が載っていました。「丸十ベーカリー」は実家の家紋、「白十字」は出身地の薩摩藩の家紋(ウィキペディアの未確認情報)ではとありました。(2020.8.17)
ネット記事では13代目のインタビューでその時々のお客に合わせて料理の味を変えてきていると、あります。暖簾はなく、のぼりを掲げています。
古くて由来は解りませんが、『食べ物屋の昭和』によると元禄13-14年頃(1700-1701年)の創業で、江戸時代には現代の魚屋とは違って仕出し料理屋も兼ねていたとあります。
初代が重助となっていたので、おそらく重を十に字替えした例でしょう。
浅草の人気どら焼き店「亀十 大正末」は賀字からで、亀の確実な歩みと十の数字の縁起の良いめでたさから組み合わせての店名です。
クロスロード、クロスオーバー、グランクロスの店名があります。ビルの名前も多くクロスタワー、クロスポイント、クロスガーデン、クロイコート、クロスフィールドなどなど。いろいろな人が交差して出会う、レストランのシーンが浮かぶ店名。
高円寺のカフェ「クロスポイント 2011年」ギャラリーを兼ね音楽、写真、絵画と出会う小さな交差点の角にあるお店。
ただ、惑星が十字に並ぶ大十字、グランクロスは西洋占星術では凶星、悪いことへの前触れであまり良い意味ではないです。
でもドラゴンクエストというゲームの用語が知られているので関係ないのでしょうね。
セレスティンホテルの「グランクロス 芝公園 2002年」は星座のイメージの内装と元薩摩藩島津家上屋敷後地の建物なので、その家紋、十字が窓枠にデザインされているので、タプルイメージをつかっています。
百
百は人間の年齢の最長、やること、見ることが可能な数。インフレのため流石に百万長者は役に立たず、今は億万長者に値上げになってはいますが・・・。
100パーセント、100年の一世紀、お百度参り、百花、百薬、百般、○○百選、小倉百人一首と区切りの良い目標値。、食べもの関連は『豆腐百珍』
江戸時代の有名料亭は「百尺楼」と「百川」が店名にあります。「百川」は「「百尺楼」の支店だとネットにはありますが、不明です。
共に店名は中国の漢詩(陶淵明の詩)、熟語(百川海に注ぐ)からつけられています。「百川」は落語の題目でもあり、黒船来航のおり、接待に使われた記録もあるそうです。(『幻の料亭日本橋百川 小泉武夫 新潮社 2016年』が出版されています。)
「百尺楼」は明治末期のガイドにありますが、「百川」の消息は不明です。
このころの百は八百屋が料亭名として百が使われているように、とても大きい数として、扱われていましたが、
百の字のモモはヤマト読み、語源は桃の実がたくさん生るだからとか、白の一抜きを九十九(ツクモ)と読み、それが変化したとか、はっきりはしていません。
店名も一年通えば、何とかクリアできる数「百膳」「百味」「百菜」品数の多い中華が断然多いです。
古くはモモと読んでいますが「ももんじや(豊田屋が本名) 両国 1718年」百獣の意味、大皿料理「百々菜屋 渋谷 1993年、既に閉店」フルーツパーラー「百菓園 有楽町 1951年」「百味家 阿佐ヶ谷 1967年」
御膳グループが展開するチャイナバル「百菜百味 銀座 1号2012年」のHPには『百の料理には百通り味がある』という文字通の意味
百がつく店名が一番真っ当に百の数をしめしている事例がおおいです。
ただ、百を『モモ』と読ませる店名もあります。漢字は白に一を加わえた構成、意味よりもハクの音から指事漢字。
「百鳥」「百魚」「百花」「百家」「百舌」「甘味屋百」「百豆」「百楽門」、食べログから並べてみました。
「グリル百舌 池袋 1980年代」は百の舌=大勢の人に料理を味わってほしいのと鳥の百舌のパワーのある鳥のイメージにあやかっての命名です。
バーなので、この食べ物屋の分類から外れますが「百舌 渋谷宇田川町 開店年不明既に閉店」も『東京横浜バーガイド』には100人の舌に合わせられる豊富なメニュー、ツマミ、飲み物がそろっているからとありました。
鳥の百舌は小説やテレビの影響でしょうか、「MOZU」の店名もみかけます。
店名の由来は不明ですが、伝説的な京都風割烹で「百味存(ヒャクミゾン) 赤坂 1983年頃、既に閉店一度京都で2008年復活」がありました。
多種類の野菜中心の料理で、写真集もでている知る人ぞ知る女性店主の割烹でした。
単純に百人はいる席がある牛タンの「百人亭 虎ノ門 1995年」渋谷百軒店にオープンした「百けん 渋谷 2016年」こちらも女性店主の小料理屋もあります。
オープンしたばかり麵屋宗の新店舗「百年本舗 秋葉原 2016年」売りが百年品質とあり、百年お客に愛される一杯をつくり続けたい想いの店名とか。
既に閉じた喫茶店ですが、「ももや 有楽町 1949-2007年」はホントの店名は「百々屋」とかいて、百代まで続くようにと願っての店名でした。
同じイタリアンの3店も展開しているモツ料理中心のオステリア「ウネット 茅場町 2009年」トッペリア「ウネット 新橋 2015年」「ソングラム 虎ノ門 2012年」
最初の2店は伊語の100g、3店目は仏語の100gの意味。グラム単位で新鮮な食材を売るイタリアの市場の食堂のイメージだとか。
千・万
千、万は数えきれない量、長さ、時間の単位。もう数字ではなく、共に賀字として付けられます
神や仏の世界、人界外の数字です。千人力、千両役者のほめ言葉や千草、千鳥、千歳、千成とひとつの言葉のイメージとして出来上がっている店名が多数。萬屋はもっと多く、ヨロズヤとして完成しいてます。
先の熟語は替え字が「千登世」「千登勢」「千都盛」「「千登利」「千彩」「千奈里」「千奈利」「千生里」と多いのは数多く同名があるのでしょう。現在は食材+が有力。「味千」「もつ千」「鶏千」「千魚」など。
千鳥だけは千鳥科目千鳥の実際いる鳥の名前ですが、水辺にいるたくさんの鳥の意味もあり、チリチリ、チヨチヨ、チンチンの鳴き声が友を呼ぶとして、店名に選ばれますね。
京都の賀茂川と組み合わせて和歌も多いので、京都先斗町のキャラ(太っちょ千鳥)にもなっていました。
この名で京都の「千登利亭 1899年」は鮨屋、握りではなく、押しずしの名店。
千は居酒屋チェーンで割と多く「千年の宴」「千の庭」「千の蔵」、お客に多くの料理と時間を提供するイメージ。もうひつつお店側の願が込められているのは「千成」、元は太閤秀吉の戦いが勝つたびに瓢箪を馬印につけ足した逸話から千生る瓢箪。意外と替え字も少なくつけられています。
東京にもあるお好み焼き屋「千房(チボウ) 大阪 1973年」はこれが由来です。瓢箪が千房のようになるくらい成功するようにとつけられています。
今はお寺の地図記号である卍(万字)にも通じる、幸福を呼ぶ吉祥万徳の場を意味するもあるのでしょう。
江戸の料理店として最初の頃の浅草の奈良茶飯屋が出できますが、江戸を出た最初の宿「万年屋 川崎宿」の奈良茶飯が『東海道中膝栗毛』や各川柳にも取り上げられています。近くには「亀屋」も。
江戸のガイド本には「万八 両国」「万清 芝高縄」「万久 芳町」明治「万金 小石川 1868年」「万安楼 木挽町 1870年」「万長 深川」「万勝軒 芝 1883年」など。
たくさんあるから、最初の「万八」、万屋八郎兵衛のように屋号と名前を組み合わせて呼ぶことが多数。
漢字の万より萬の方が全国では好まれています。京都の「萬亀樓」「萬常」「萬長」等。明治以降は千代、千里、萬里、万国、時間・距離の意味合いが付けくわえられています。
「フルーツサロンペニマン 神戸 1912年」は紅萬と漢字の書き方から、神戸市最初のフルーツパーラー。紅は果物の新鮮な赤、萬が専門店として様々な種類を取り揃える、よろずの意味(HPから)
でも、多いのは賀字役割で、「萬福」「萬来」が分かりやすく、多用しています。
写真はラーメン屋というより中華そば屋「萬福 銀座 1929年」
百と同様に千万は洋系はあまりなく、チェーンの「カフェラミル」くらい。今はユニマットに属していますが、前身の千成モナカの「千」という会社が設立。コーヒーを挽く道具ミルの意味も含むのだそうです。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
みんなで・・・
東北の地震から6年目になり、当初は意図的か絆の言葉があふれていました。
SNS系フェイスブックやラインの流行も繋がり、リンクを認識させられます、社会問題になるほど、煩わしいほどに。
兎にも角にも巷にはつながり、共に、分け合いの言葉が溢れ過ぎています。
一時期、店名におひとりさま向けを意識した店名がありました。1人焼き肉専門店「ひとり 御徒町 2011年」「ひとり一鍋元気 学芸大学 2011年」等
しかし、実際はおひとり様は入りにくいですね。
とは言え、スタンドタイプの立ち飲み、ステーキ、しゃぶしゃぶ、一人焼肉の食べ物屋は増殖中です。
その一方でバルのような激狭い空間で、赤の他人と飲み食いをすることにより、仲良くなることができる店も増えつつあります。。
みんなで繋がる ⓢー(追 加2019.1.15)
戦後の0からの出発、共に頑張ろうという意気が共通のものとしてあり、1950年代の社会主義の台頭もありました。共、協の字が示すもの、多くの会社があります。あまり食べ物屋には使われていません。
久しく使われていた宴会を連想する輪、和、円、宴を作りましょう的な店名や店名ズバリ輪は使っていないイメージのものもあります。
流行ー丸からえんへで一度輪、結を扱っていますが、結は当て字に使われることが多くなっています。
やや濃いめの人間関係言葉、縁、ゆかり、繋がりから、縁がない人が集って飲食をするイメージが増えてきています。
現在の中心は絆、結、縁の漢字です。ある意味難い主義の漢字、共、協から人間臭いの温かみのある漢字への変化。
震災前も、縁、結や繋がりのイメージはあったのですが、震災後いろいろなタイプに変化します。例では「糸半」という店名が絆の字を分解してつけた店名と説明しているものもみつけました。
同様の方法で「イトキチ 西荻窪 2012年」スペイン料理店ですが、結の字を糸と吉にばらしてお客どおしを街で結付けるの意。
新宿きづな寿司 2011年開店
銀座すし縁 2015年
神楽坂レガーメ 2013年
池尻リアン 2014年開店
上のの写真は縁、絆、繋がり関連の店名、縁の読みはエン、エニシ、ユカリとあります。フランス語のリアン、イタリア語レガーメもあります。
これ以外にもフレンチの「リエゾン 幡ヶ谷 2007年」「リヤン 吉祥寺 2014年」「ル・リアン 2013 恵比寿」各々人との出会い、繋がりを強調しています
カフェの「ベースカフェ 吉祥寺」が「ヒトト」に2013年に改称しました。
店主のHPには、漢字の当て字としては火徒戸、日と都、一と十を当てながら、人と料理、人と人、人と自然、人と音楽など人と何かが繋がる場とあります。これが今の”みんなでの”ベースでしょうね。
同じ意味の「テトテ(te to te) 銀座 2013年」、「コロニラ・ヴィアンド・エ・レギューム」からの改名。
高級志向の食材にこだわるレストランは気に入った生産者、理解してくれる客の繋がりがとても重要な意味を持っています。
「クラフタル 中目黒 2015年」は言葉の由来の説明文を呼んでも理解するのが・・・。
フランスの数学者ブノワ・マンデルクのフラクタル概念から『仏語の部分と全体の自己相似性ひとつひとつの異なったものが繋がっていく構築される全体の形(料理王国2017.3月号)。』
HPの方が分かりやすいでしょう。『クラフト(手わざ)とテール(物語)との造語。生産者の情熱と愛情をレストランの手がを紡ぎ、皆とレストランの物語をつくりたい』です。
「カフェダイナーS(シー) 神泉 2003年」エスの字を指でCの字を作り手をふたつ繋いだロゴマーク。
「マンマーノ 代々木上原 2008」パンカフェはマンは仏語、マーノは伊語の手造りの意味を造語で、手と手を繋ぎたい想いを示しているとあります。(お店HP)
ママは偉大な力で書いたクルックの経営「ラ・ソラシド(LA SORA SEED) 押上」「コードクルック 代々木」。
共にイタリアンでフードリレーションネットを掲げています。食と農、生産者と都会の人々を繋ぐ事を謳っています。
「チャムアパートメント(CHUM APARTMENT) 目黒 2005年」人と人が集まり繋がる広く発展していく集合体の意味
繋ぐのイメージは手を繋ぐの連想で手が多く出てくるのですが、もう一つ糸偏関連もおおいです。かつて糸をつむいだり、布を織る仕事は女性中心の仕事、カフェには女性オーナーがこの店名を好むようです。
ノスタルジーと子供時代でアップしたカフェつむぐりも紡ぐの意味を含む店名です。
閉店していますが、「ツナグカフェ 六本木 2010年」
近々のオープン店「cafeむすび 両国 2017年」キッヤチコピーは心と心を結ぶ、癒しの空間。人と人、人と犬の心を結ぶそうです。
ビジュアル系じゃないかと思うのが「人人」、ニンニン、シンジンと読むようですが、二人手を繋いでいるイメージ。
3人なのは「人人人(レンレンレン) 丸の内 2005年」際コーポレーション系列の中華、様々な人々が集う店という意味で中国読みになっています。
もっと大きなものは橋、ブリッジ、ポン、ポント。あの世とこの世を結ぶ、神話の世界では虹の橋が出できます。
名前も地名もとても多い橋、それだけ重要な場所ということで、和系は見分けができません。
洋系は「ポンヌフ 新橋 1967年」「ポンドールイノ(日本橋の繁栄を意味金の橋+シェフ名) 日本橋 2010年」「ボンテチェントロ(中央大橋) 月島 2010年」「ルポンバスキュラン(勝鬨のはね橋)と地名からの店名。) 勝鬨橋 2015年
これ以外、人と人の架け橋で繋ぐいうのは、最近の店名です。
以前からガイド等で名が全国的なのは大阪市北浜のフレンチ「ルポンドシエルLE PONT DE CIEL) 1973年」、意味は天架ける橋でこの時代らしく、文化の架け橋(お店のHPからーお客様のくつろぎと味覚を結ぶ文化の架け橋でありたいという思いを込て)
両方の意味地名と架け橋もあります。「ブリッジコーヒー 浅草 2012年」合羽橋の架け橋に、「エーブリッジ(a-bridge) 三軒茶屋 2001年」最初は中野新橋にあり、aは関西のええ、良いでブリッジがいろいろな人への橋渡しを、となっています。
パソコン用語のリンク(link)は、物と物を繋ぐ意味、早くから広がってはいますが、パソコン関係だけに、ネットでこの店名は検索が難しい単語になっているので少ないようです。
皆での、もうひとつの言葉、分け合う、共有するは以外と人気薄なのはシェア、シェアハウスの言葉は流行ですが、発音が地味、言い難い点があるのかも。
上で書いたように、SNSの世界で使われすぎて、心理的に疲れる言葉になっているのか?。
2015年にファッションビル『青山ベルコモンス゛」が閉じましたが。コモンズは共有地、共有広場のこと。
少し意地汚い比較ですが、シェアは分け合う、自分の取り分が減るイメージ、コモンは自分のものは皆のもの、皆のものは自分のものと増えるイメージ、食べ物はひとの根本の欲望の一つですから。
フードビジネス系ラムラ「コモンカフェ 新宿(丸の内店もあり)」はアイヌ民族の自然との共存、分かち合い、仲間への思いやりの『心の繋がり』をテーマにcommon(コモン、共有・団結)の文化を伝える場所。
ほか、「コモン 虎ノ門」写真の「バクロコモン 東日本橋 2014年」
繋がりをテーマにした「ワイヤードカフェ」を展開するカフェカンパニー経営の「フラワーズコモン 渋谷 2012年」コンセプトが渋谷に集まる多様な人々共に作るコモンセンスとなっています。
店名ではありませんが、大阪にはお店のスペースを共有する日替わり店主の「コモンカフェ」、2016年に開業したビル、銀座プレイスの3階のワンフロアスペースに名付けられた「コモンギンザ」は銀座を行き交う人々の交流、情報発信の場として位置づけられました。
みんなが集まるシカケ ⓢー(追 加2018.6.10)
□ みんなが集まる祭
花見、祭などの行事も個人で楽しむ人が増え、宴会を嫌がる若者も昨今では多くいます。
「カフェ・ディ・フェスタ 日本橋 1971年」イタリアン「ラ・フェスタ 九段下 1987年」フレンチ「ラ・フェット 北青山 1991年」「オステリア・ラ・フェスタ 自由が丘 1992年既に改名」スペイン「フイエスタ 原宿 1992年」「ブラッセリー・ラフェット 池袋 1996年」と相当数確認できましたが、ほとんど閉店しています。今はメキシカン料理が中心の店名。「ラフィエスタ 六本木 1990年代」
日本語の祭はあまりガイドブックに取り上げられる店はないのですが、居酒屋、祭に出店するからかもんじゃ焼・お好み焼き店が多いです。
個々の博多どんたく、花祭、祭囃子もあります。どちらかというと、外国の祭の方が物珍しく雑誌等に取り上げられています。
とにかく、人を集めるイベントを開催することが今の流れ。祭、カーニバル、サーカスの店名も。サーカスはサークル、舞台が円形からの原語です。
集まりのサークル、大学のサークルのような集まり。円卓の騎士の集まりのように年の差や身分の差なく、同じ卓、テーブルにつく。同じ円型つながりでサーカスにも集まるイメージがあると思います。
昭和の中頃には空き地でテントを張って興行するサーカス団がありましたね。現在はパフォーマンスとして「月夜と森のサーカス 代田 2015年」「サーカスカフェ 吉祥寺 2010年」のような店で演じられています。
サーカスの付く店名は比較的新しいものが多いです。実際のサーカスは日常から遠くなり(テレビCMでシルクドソレイユは見かけます)、その華やかさ、楽しさ賑やかさはイメージとして強いもの。「サーカスカフェ 田町 2006年」「サーカス(CIRCUS) 下北沢 2013年」「サーカス(CIRCUS) 国立 2013年」。古代ローマを堕落に導いた象徴する言葉「パンとサーカス」からの命名、居酒屋「米とサーカス 高田馬場 2011年」「パンとサーカス 新宿三丁目 2013年」。
古いのは閉店している「サーカス 五反田 1994年」デザイセンター内のアートフルカフェ、こちらも閉店しているフート―ビジネス系「フードサーカス 豊洲 2006年」。
東京内では命名の理由は見つけられなかったのですが、京都のコーヒー店「サーカスコーヒー 北大路 2011年」、サーカスに『集う』意味を付けて、幅広い人々が集まってワクワク気分味わってもらう店になりたいそうです。 それこそ、平安の時代から宴と呼ばれる集まりか゜ありました。一番先に書いたように若者は宴会が好きではないようですが、皆が集まる機会が嫌いではなく、個人的利害関係がなく、なんのつながりもない同好の人々、年末年始の、ハローウィーン、新しいゲームソフトの売り出しりの大騒ぎには集まります。 炉、炉端、炉端焼きの居酒屋は以前よりあり、それの洋風タイプが近頃流行中。こちらは魚介類ではなく、肉。
肉は以前も書いたように原始的な焼き方、塊で、調理するのが美味しいので、肉の焼時間を時間を告知する「炉窯ステーキ煉瓦」のようなステーキ店、
「炉縁 新橋 2016年」も立ち飲み炉端焼き店、ぐるなびの店名の頭に『同じ火種の囲炉裏を囲んで縁を紡ぐ』とついています。
「ビストロホワイエ 赤坂 1976年」「オーコアンドゥフー(Au Coin Du Feu) 代官山 2011年」も同じ、こちらは暖を求めて人が集まる暖炉ですけど。ロシア料理が多くあった中に「ペチカ 新宿 1966年」イタリアンの「カミネット 北青山 2002年」
〇 みんなが集まる場 ⓢー(追加2018.6.24)
漢字一字で集う、集まれで分かりやすい、ストレートのチェーン「珈琲茶館集」は以前も取り上げましたか、喫茶店には珍しく直球ど真ん中の店名。グループ内にはほかに「炭火BAR集」。
集の字が付くのは中華以外は新しい店、「肉の切り方集会所 人形町 2015年」「集らく」「集い(ツドイ)」など
くだけた言い回しでは居酒屋「たまりば本店 代々木 2005年1号」のような溜まる、留まる場所。他に屯(たむる)群(むれ)等も、居酒屋に多いもの。
そこで開かれる宴、宴会は今の若者には嫌われていますが、平安の時代から儀式、行事ごとに飲食をトモなするのは当たり前になっていました。
ただ、食べログであるのは大箱の居酒屋ダイニングが独占状態です。言葉通で大宴会用のお店を表しています。
集まる場所は頭や尻尾に付くことがおおいようです。市場、マルシェ、広場、プラーザ、ピアッツァ、スクウエア、センター、チェントロ、セントロ、館・パーラー・サロン・クラブなど。
近頃、駅にいろいろ集まったエキナカも多いので、単一で駅もあります。
有名なのは「東京會舘 丸の内 1922年」2015年に一時閉店で今は立て直し中。
最初は帝国ホテルの宴会場として創業、料理人も交流があり、文字通り多くの人々が出合う場所。震災や戦争で幾多の困難に会いながら、歴史の舞台となりながら続いています。2016年に『東京會舘とわたし 辻村深月著 毎日新聞社』という小説も出版されています。
たとえば屋台、ラーメンやアジア系の食べ物屋に多いようですが、「博多屋台市場 蒲田 2009年」のように博多の名物、水炊き、ラーメン、ぎょうざ、ごぼう天等を屋台のインテリアで食することができたりします。
横丁は「恵比寿横丁」一つの店ではなくプロデュースした小屋台風の食べ物屋が並んでいます。席は共有だったりします。そのため婚活の出会いの場と喜ばれています。
中心、真中の意味のセンター。かつてはお役所関係の施設によくみかけました。今は官製の堅さを和らげるため、家、〇〇の場、委託されてかわいらしい名前になっています。店名が食材の時代になった昨今、センターも多くなっています。
「イカセンター」「ミートセンター」「魚介センター」「食肉センター」等、こちらもフードビジネス系ですが。
カフェは「ミッド(mid) 代々木八幡 2007年」「ノードウエハラ 代々木上原 2015年」ミッドはミドル、真中の意味で人と暮らし、生活の真ん中にありたい、ノードも中心、分岐点のパソコン用語。朝からは晩まで生活の中心にいる意味のようです。
オムニカフェ(omni-cafe) 代官山 2002年既に閉店」乗合バスたくさんの人と仲良く知り合いに。
店数が増えつつある「オニバス 奥沢 2012年」も同じ意味で、語源が万人ののためにから、バス停からバス亭をつなぐように人と人を繋ぐ役割を担いたい願を込めた店名。
「タスヤード(TasYard) 千駄ヶ谷 2004年」人の集まる十字路・庭、「ニューポート 富ヶ谷 2008年」港町のような街ようにたくさんの人が集まるように、「ひだまり(Hidamari)cafe 蒲田 2011年」陽だまりの光のあたる自然に人があつまる場所、蒲田の住む人働く人の陽だまりに。
「キアズマ珈琲 雑司ヶ谷 2000年」好きなアルバムのタイトル 染色体の結び目の部分 人と人が交差する場所をイメージ
「Hygge (ヒュッゲ) 渋谷 2012年」デンマーク語 人々があつまる場所 暖かい場所 憩いの場所
コーヒー専門店「サンデーズー 木場 2014年」は多くの家族も集まる日曜日の動物園をイメージして年代関係なく集まる場。
輪を繋ぐもあります。「ループホリック 上野毛 2012年」ループ(Loop)人と人の輪、ホリック(hoolic)夢中、詳しくはHPで。
★パーラー
この雰囲気に近いのがブルーノートがプロデュースした「Brooklyn Parlor(ブルックリンパーラー) 新宿三丁目 2009年」『人生における無駄で優雅なもの、全部』がコンセプト。N.Yのマンハッタン島にある街の名、ポジティブでーな自由と混沌とした文化の遅効性のあるブルックリンスタイルを届ける思い。
フルーツパーラーは和製英語、果物店「千疋屋 日本橋 1834年創業」が最初、店先で立ち食いする外国人のために椅子とテーブルを用意したのが始まりです。
その後「万定パーラー 東大前 1914年」「万惣フルーツパーラー 神田 1927年」「高野 新宿」が1924年にフルーツパラー。
そして大きな影響を与えた資生堂のアイスクリームパーラーが1928年から営業開始しました。
オーケストラボックスがある豪華な内装で化粧品を扱っていますから、女性に人気。
戦後はサンドイッチパラーなど軽食をとる店として付けられています。「サンドイッチパーラーマツムラ 人形町 1921年創業、パーラーは1957年から店名に」2012年に復活した「はまの屋パーラー 有楽町 1966-2011年」
ちなみにはっきりした由来は不明ですが、パチンコ屋のパーラーはギャンブルへの薄暗い印象を振り払い、明るいイメージを加わえるため付けられたといわれているようです。
今は別の道へ変化しています。
こちらは沖縄のパーラー、海の家と屋台とバル、敷居の低い気軽に寄れる人が集まりやすい雰囲気のタイプの店。
2号店が「まちのパーラー 練馬区小竹町 2011年」、これ以後、人を集めやすいパーラーの幅が広がっていきます。
ワインバー、ビアバールにもパーラーがつく店が出てきています。
チリビーンズの「チリパーラーナイン 市谷 2012年」「エドパーラー 内幸町 2011年」ビストロ「パーラー305 人形町 2013年」シンガポール料理「クラークジャックパーラー 三軒茶屋 2016年」ビアホール「アースリーパーラー(ATHREE PARLOR) 西新宿 2016年」
★テラス
頭、尻尾の関連で「テラス」調べていたら、そして、他の業種へ多く広がっているテラス。テラスの拡散が分かりました。洋式の家を作る時の憧れだったテラス、アメリカン人がそこでバーべキューする姿も同様でした。
テラスは一軒家の庭の広い家、リッチな世界のあこがれでした。ホテルもカフェテラスを備え、庭を見ながらの休憩タイムを過ごす。
もともと、マンション名のような住居に多くあるのですが、組織名に広がっています。
『日本経済新聞ライフ版2015.4.1』の『本来の意味はどこに 施設名に「○○テラス」続々』の記事にガーデンのような閉じた一施設のイメージよりもみんなの場所、共有の場所のニュアンスのテラスの方が最適と考える所有者が増え以するとのこと。
学者の方のコメントもテラスが照らすのような意味にとられ、動詞の照らすに名詞が組み合わせる造語を作りやすいそうです。
全国に拡散しているテラス、様々な人が共有するくつろぎの空間のイメージが好まれ、便利な言葉になっていて、震災以降の共有、シエアの概念を広まっている状況に合致しているとのこと。『法テラス』というようなサービス部門にも使われています。
テラスが作られた最初の頃、開放的にして店の中の様子がわかるようにすることで入りやすくする、特にその時代制約の多かった女性にとって入りやすい雰囲気でした。
以前アップした場所名ー家マワリにも書いていますが、その後ホテルのカフェテラス、ガーデンテラス、街場にもカフェテラスの喫茶店が増えていきます。
90年台に「テラス 恵比寿」のよう何もつかないものも登場。「ライステラス 西麻布 1991年」「アユンテラス 渋谷 1997年」「ビアテラス14 大手町」「カキノキテラス 八王子 2015年」等のバリエーションも出現します。
「マーサーカフェ 恵比寿 2007年1号店」にようにテラスにこだわり、「マーサーカフェテラスハウス 表参道 2008年」「マーサーブランチギンザテラス 銀座 2014年」をオープンしています。
ほか「ハーベステラス 品川 2013年」「バロワーテラス 青山 2015年」出される料理はお客を集めやすいイタリアン系が多いとはいえ、様々です
テラス店名が増えてしまったので、最近は「マーサーカフェ」のように長くなるのもかまわず、「シースケープテラスダイニング 台場」「シモキタザワテラスパーネズハウス 下北沢」「トヨミフィッシャーズテラスーとよてら 竹芝」と頑張って命名しています。皆2016年開店。
★サロン
パーラー、テラスと同じように、家の中の部屋の名、フランス語の居間、リビングルーム。(プラス記事『サロン』掲載)
二つとは違うには、フランス革命という歴史的事件を影で支えた思想家、活動家の議論の場であったこと。
現在のサロンは今風の言葉で『意識高い系』に属する敷居を高い店名。知的文化的雰囲気を醸す言葉。組織的な催し、かつては美術界の憧れのパリ展覧会『サロン・ド。パリ』シュコラティエの祭典『サロンデショコラ』が有名。
流行語『サロネーゼ』はシロガネーゼと同じ雑誌の発信のようですが、自宅を使っての料理や手芸、外国語を教える小規模な教室で主に専業主婦の趣味サロンの担い手を呼ぶようです。
食べ物屋のサロンも本店の規模より小規模、一ランク上のイメージを意識しています。
手本になっているのは先ごろ再オープンした「サロン・ド・テ・アンジェリーナ 銀座 1984年」「ラデュレサロン・ド・テ 銀座 2008年」などパリの老舗のサロン・ド・テ。先駆けはホテルやデパートのティールームでした。
サロンには大勢の人を集めるとは違う選ばれた感覚が付いています。開放的なテラスとは真逆の閉じた世界ですが、それがまた、是非にも訪れたい想いを刺激する店名なのでしょう。
実際つかわれている店名は+++コラムサロンにアップしていましたが、ほかに高級フレンチ系「「サロンドゥエスキス 銀座」レヴェランスの「サロンデヴァン 広尾 2008年」
紅茶、ケーキを提供する店としてはほかに帝国ホテルの「サロン・ド・テ 日比谷 1983年」がありました。
これが一番サロンらしい完全予約制、住所非公開の「笄町サロン 六本木 2002年」高級焼鳥「トリサロン(TORI+SARON) 西麻布」など。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
みんなは誰か
わたしつくる人、食べる人でかつて取り上げた店名の中にある人間関係。
最初は誰が作っているかで、オジサン、オバサン、オフクロサン、ママ、パパ、モチロン客の血縁てはありません。家族的雰囲気つくりですね。
恋人や夫婦を表す店名もありが少な目。
お客側のみんな、皆の言葉が成り立つのは友達以上でしょうか。
戦前は友、朋はあまりなかったのです。
友のつく有名店は最初は洋食の三友軒から日本料理屋へ変えた「さんとも」、今はフグ料理店「銀座1921年、最初浅草にて洋食、1927年に日本料理店、終戦後銀座へ 既に閉店」同名の「上野1931年」、「秋葉原 1930年代」にあります。
三友は漢語の歳寒三友(松竹梅)か、漢詩人李白の詩人の三友(詩・琴・酒)を意味するのかは不明です。京都の仕出し屋の和食店「三友居 高輪 2010年、以前は吉祥寺にありました」は後者のほうです。人間の友とは違うようです。
日本語の友達はとても少ないです。仲間の英語フレンド、フレンズ、仏語、アミ、コパン、フェローなどが付けています。
洋系で最初はフランス語へのあこがれが強いので、以前取り上げたアミから「モナミ 銀座 1929年」岡本かな子の名づけの喫茶店。東中野、新宿に姉妹店があったそうです。戦後も喫茶店「ベラミ」「モナミ」がありました。
今は正当にフレンチ「ラメゾンダミ 大崎 2010年」「アミニマ Amimima 外苑前 2014年」「ビストロデザミ Bistro des Amis 上石神井 2013」喫茶店の「ベルエキップ(良き友) 白金 2008」。
最近のは「Crony(クローニー) 乃木坂 2016年」、近頃の傾向で見かけない言葉が多く出てくるのですが、こちらも永続的な茶飲み友達の仏語で、レストランも気の置けない友と素の付き合いを長くするようなお店にということです。
戦後はアメリカンな風潮もあり、フレンドリー的な雰囲気の言葉を店名に選ぶことが多かったです。
大阪のフードビジネス日本フードサービスのファミレス「フレンドリー 1977年」から始まっています。
東京では1970年代から開店し(1970年代の電話帳には20件弱、)レトロになっていった残った喫茶店が多いようです。「フレンズ 大田区蓮沼 1978年頃」上記写真「フレンズ 神泉 1981年」「キッチンフレンズ 西蒲田 2010年リニューアル」「フレンド 神田」「フレンド 東陽町」など
写真の「コパン 神楽坂 1980年開店(1946年に甘味処として開店、ビル化に伴い洋菓子店に)」が古く、ネット記事では集まる、仲間の意味でお客が大勢集まることを願って当初はつけたそうです。今は神楽坂のコミュニティ(共同体)になることを目指しているようです。
他の仏語の仲間、同士のの「モンフレール 春日 2005-2014年」「フレールカフェ Frere café 代々木上原 2009年」も。
下北沢で名声を得ていた南欧風居酒屋「コパンコパン 下北沢 1983年、すでに閉店(上北沢で元シェフが同名で)」と同じ名前の韓国料理店「コパンコパン 有楽町 2001年」仲良しの友達の意味
フレンチのレストランももちろんあり「ボンコパン(Bon・Copain) 南青山 開店年不明(ぴあMap1997掲載)」元成川亭の初代片倉シェフのお店
ラテン系のアミーゴも「ムーチャ・アミーゴ 自由が丘 1959年頃」「エル・アミーコ゜ 大田区北馬込 1975年」タコス「タコスデルアミーゴ 原宿 1979年」現在は再度のタコス料理の流行か復活か「アロハアミーゴ 原宿 2015年」「アモーレアミーゴ 外苑前 2017年」等。
店名はグッドフェローズが多く、仲良し仲間で親密さを深くしています。
もっと人数が多いイメージは国民、民衆、大衆、ピープルという塊。社会学だと民衆と大衆は意味が違うとか。
食べ物屋は大衆が分野で、多くの食堂・割烹・居酒屋にこの頭がつきます。
大衆食堂は大正時代の貧しい人々の官制の食堂「公衆食堂」から始まり、以前書いて民間の簡易食堂「須田町食堂 1924年」からひろがっていったもの。
「めしや」と呼ばれた大衆食堂の呼称が定着したのは1930年代のようです。
「須田町食堂」のキャッチフレーズが『ウマイ・ヤスイ・ハヤイ』。これは今もレベル形容、値段が高くない、気軽に飲み食いできることをあらましています。
ステーキ店「フォルクス 大阪市中津1号店 1970年、1972年から全国へ」もドイツ語の国民、大衆の意味。高価なステーキを大衆価格で、広く一般の人に楽しんで欲しい意味です。
堅めのフォーマルにパプリック、公共、公衆、公、一般国民の意味。
食べ物屋の中では英国のパブ、パブリックハウスは伝統的な居酒屋のこと、昔は女性が入れなかった時代もありました。日本で英国風ピール居酒屋、ビアパブが多いです。
ソニービルとの建て替えにともないパブの先駆けだった「パプカーディナル 銀座 1966」が2017年3月に閉店しましたね。
クラフトビー流行の今はパプという英国の居酒屋のタイプの模倣からビアバー、ブリューパプ、ビアハウスとはっきり形態を打ち出しています。
フードビジネス系カフェカンパニーの「パブリックハウス 渋谷 2010年」はコーヒー一杯で始まる近隣で活動する方々のパブリックスペースの再生がコンセプト。パブリックの意味の公(オオヤケ)を大家として一つ屋根の下大きな食卓を囲み、食を通じてかたりあい未来を生む場所としたい気持ちを込めている店名。
写真は喫茶店「パブリック松濤 松濤 2010年」憩いの場、イベントスペースの用途も兼ねています。
一番分かりやすいピープル、多くの資料にはレトロ喫茶「ピープル 神田 1970年頃-2014年」がありました。全国でも昭和チック、昭和の味のナポリタンの記事が踊るピープル、一時代が過ぎた店名でした。
ただ、最近のスタンド系コーヒー店はひとと交流がメインなので目立つようです。「アンド ピープル 渋谷 2010年」「グッドヒープルグッドコーヒー 池尻 2013年」「トウキョウピープルズカフェ 駒沢」など
SNSの世界、フェイスブック、ツイッターでは友達とフォロワーには境があり、結構微妙な心理戦の世界。
多くの食べ物屋でフェイスブック、ツイッターでお客との情報交換をしていますが、なかなか毎日大変な感じがします。
「ユーイチローエアー Pizzeria YUICIRO&A(鈴木雄一朗とその仲間アミーチ) 立川 2010年」みたいな店名も出てくる時代。
この際まとめて、私たち的な「アワーカフェ(OUR CAFE) 新宿御苑 2009年既に閉店」「アワーズ(ours) 大崎 2012年」「コチト(cotito) 西荻窪 2014年」「我達(ワッター)食堂 江古田 2011年」は新しいタイプでしょう。
「みんな」のつく店名も出てきていますが、多いのは頭につくもの、「みんなでイタリアン」「みんなの食堂」「みんなのkichen 神泉 2012年から改名」「ミンナごはん 西荻窪 2013年、既に閉店」フードビジネス系「青山食堂みんなでごはん 青山 2012年」親密度境界線があいまいですが、・・・。 一店ですが、皆さんという呼びかけ伊勢丹に入っているビストロカフェ「レディースアンドジェントルマン 新宿 2012年」 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
記録・記憶の中の食べ物屋
・追加9月30日・12月17日・2019年3月10日
・追加2023年12月30日・追加2023年12月30日
昭和は終わって30余年になり、その時代を彩ったお店はオーナーの高齢化、逝去により次々と去っています。
昭和の店名、海外へのあこがれに満ちた 今は馴染む店名と尖がっている店名が分かれといます。時代の波の格差社会が店名にも、というかヨーロッパの階級社会では当然のごとくあったものがはっきり見えるようになった時代。
日常の言葉をアレンジしたもの、難しくて読めない、意味が辞典を引かなければわからないもの。そこには価格差もあります。
かつて、尖がった店名は今はどうなってしまっているのか、消えていくのか、唯一無二として引き継がれていくのか。
コロナ ⓢー (追加2020.11.30)・(2021.9.10)
コロナはラテン系言語の王冠の意味。英語の太陽の冠としているトヨタ自動車は特に冠を好んで自動車名をしていて、クラウン(王冠)、コロナ(195年7販売)、カローラ(花の冠)と主力車になっています。
ほかに金環、太陽の周りの淡い真珠の光を意味しています。
パソコンが普及し始めたころ、よく秋葉原に通いました。駅をでた2階に「古炉奈」という喫茶店がありました。
「コロナ 秋葉原 1966-2005年」は松波無線がはじめた2階の普通の喫茶店だったそうです。
それを1999年に「皇琲亭」を経営する山下コーヒーにコンセプトをまかせ、杉の古木、松本民藝家具を配して、『秋葉原の応接室』のイメージで本格喫茶「古炉奈」ができました。
ずっと秋葉原のシンボルのような喫茶店でしたが、安価なコーヒーチェーンが多くなり、喫茶店を閉じ「グランヴィア 2009年」、欧風キルドレストランに衣替えとなりました。(Aスキデジタル記事2009.6.13より)
このHPのため、2012年の頃、京都にレストラン「コロナ 1945-2012年」の写真を撮りに行ったら、タッチの差で閉店、看板だけが残っていました。
今年(2016年)、神楽坂にできた京都の喫茶店「マドログ」が「コロナ」の有名なたまごサンドは引き継いでいます。
食べログで出てくるのは「コロナ 久我山 1960年代頃、ブログから推測」です。
大きいものから人の名前までこの状況の中、どうなっていったかを取材した記事が多く載っています。言葉の運命を知ることができます。
先に書いたように王冠、太陽にも関わるコロナはこれから先、生き残っていくのかどうか見守っていきたいです。(2020.11.30)
食べ物屋はほとんど残っていないのですが、料理に関係するガス機器会社「CORONA CORPORATION」。70年以上前にガスの青い炎が太陽の周りの金環の発光色に似ていることから命名。やはり風評被害があるようで社長のコメントをネットで読みました。
WHOはCOVID-19(コビッドナインティーン)と正式名称を発表しましたが、少し言いにくい。歴史の年表に載るような言葉ですが、「コロナ」は載ってほしくないですね。
(2021.9.10)
スコット
ガイドブックにずっと載っていたのは「スコット 浜町 1929年」。主人が英国ロンドンの有名高級レストランの店名から採ったとのこと。
元々、海軍クラブ水交社で修行し、鈴木貫太郎氏の贔屓となり、海軍が利用していたレステラン。今も、その頃と同じ柿右衛門の器にフランス料理を盛りつけています。
「すこっと 下北沢 1950年代-2007年頃」は銀座のフランス料理「スコット」で働いていたコックが開店(HP1999年放送)。お座敷洋食として知られていました。
銀座「スコット」は『味の東京 関瑞男 1956年』には銀座八丁目の住所は載っていますが、それ以外は不明。ネット上ではすでに閉店したイタリアン「スコット(勝企画経営) 銀座4丁目 1971-2016年」ステーキ店「斯古都 日比谷 1970年代頃」がありましたが、関連もわかりません。
レストラン「スコット 熱海市 1946年」創業者は蓮見健吉氏。
「スコット(scotts) 甲府市 1957年」は銀座8丁目の洋食「スコット」出身。
北海道のみの展開のフードピジネス系洋食レストラン「スコット(SCOT) 札幌 1956年」も店名の由来は北海道大学の先生から、同様に英国の有名なレストランがスコットあるとして、これに習っています。
個人としてはお金がない頃、飲み物だけにお金を払うのが惜しくて喫茶店にはいかなかったのですが、「スコット(SCOT) 自由が丘 1973年頃」、都内でも最初の頃のオープンの紅茶専門店に行ったことがありました。
若い時でしたので、下北沢に行ったときは旅館のような風体の「スコット」を眺めるだけで、戸をくぐることはできなかったです。
ドール
六本木のジャズレストラン「サテンドール」のHPから1974年神戸北野町で開店、その後東京銀座、六本木と開店。今年(2017年3月)にビルの建て替えで新しい場所に移して、リニューアルしています。
直訳は高級なサテン布の人形、調べたら1953年作曲、1958年作詞のジャズの有名ナンバー、ちょっと軽い美人さんの意味。
サテンドールはジャズ喫茶(四谷)やジャズバーとしても全国にも広がっている店名。
勤め始めた時、連れていかれたのが「サテンドール」という喫茶+パブ。
それ以来、ドールは人形と想い込み、出会った店は何かの人形と思っていました。
そのうち何か変?、フランス語習う機会があり、金がor(オール)であり形容詞として後ろにつくとd'or(ドール)知りました。
ドールが付く仏レストランは他にガイドブックには以前アップのフレンチ「コックドール(金鶏) 銀座 1965年」
『建築写真類聚洋風喫茶店6 1967年』に載っている「カルネドール 西銀座 開店年不明」。カルネは今ネットでみると肉のフランス語でステーキレストランになりますが、おそらく綴りからは手帖、金の手帖の意味。フランス映画の古典名作『舞踏会の手帖』からのイメージでしょうか。
銀座の超高級ケーキ店「エルドール 銀座 1971-1987」、意味は原綴りが分からないので、不明。他の店は『金の翼』の意味とありますが・・・。『洋菓子の研究 中央公論社 1979』で『おそらく東京で、日本でもっとも高価なお菓子を売っている店』といわれていました。さすが金、ドールを冠する店。
できた時、形と色がちょっと???・・・といわれた「フラムドール 吾妻橋 1989年」朝日ビール系レストラン、ビールの泡をイメージした金の炎。
イタリアンはトマトの意味のポモドーロ(黄金の林檎)があるため、ドーロd'oroは少ないです。
ロロ
喫茶店の資料を読むと渋谷の「ロロ 渋谷 1959年以前-1975年頃」がでできます。出来合いのものを使う他の喫茶店とは一線を引いた本物志向の強い喫茶店。
『記憶のなかの街渋谷 中林啓治 河出書房新社』のなかに井の頭線ホーム下にあり、『都会の故里ロロの洋菓子』のキャチフレーズでケーキも自慢であったそう。
商店建築という雑誌に同名の「ロロ 新宿 1978年」、新宿マイシティ地下に自家焙煎の特長と個性的な店づくり、陶板レリーフとインド砂岩が載っていました。
ネット上では人気のホットケーキの喫茶店「ワンモア 平井 1971年」の修行先としてよく伝説的喫茶店の名前が挙がっています。
もう一つの喫茶店「ピノキオ 大山 1974年」もこちらは新宿の支店で働いていて、そこから同様に銅板焼のホットケーキを新宿店から引き継いでいます。その頃のロロは相当の人気店であったそうです。
写真の「ロロ 岡山市 1972年」は渋谷が基になっていて、ただローマ字表記が渋谷が「ROLLO」、岡山市「LoLo」となっています。関係は不明ですが、「ロロ(RORO) 白金台」「ロロ(ROLLO) 京都」「ロロ(RORO) 長岡市」「ロロ(LOLO) 旭川市」と様々食べログでは見つかります。
今はもう閉店していますが京都には二條に「ロロ(RORO)」もあり、全国にはヒラガナ、漢字もありでがっばっている店名と感じます。
アクの強い、よく言えば超個性的なキャラがコーヒーから内装にわたって際立つ喫茶店。そのキャラに共鳴する人たちが付ける店名でした。
ロロの意味はわかりません。フランス語の辞典では歴史上の名前で、10世紀ごろ、詳しくは経歴不明のノルマン人のヴァイキングの親玉ロロ、後にキリスト教に改宗してフランス王より、ノルマンディー公(何代目かが征服王ウィリアム公としてイギリスを征服し、イギリス王家の始祖です。)に封じられたそうです
個人的意見ですが、カタカナで書くと口の字が二つ並んでいるので、会話を楽しんでいるようなイメージを持ちました。
もう一つ穿った考えは中国語のコーヒーの漢字、日本語は玉篇ですが、あちらは口篇に右側作りは日本語と同じです。それをヒントに口二つか? ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
レンガ屋
代官山にヒルサイドテラスの1970年オープンのフランス料理店「レンガ屋 1970-1982」です。
銀座に本店(1965年開店)があり、1970年代、フランスの巨匠ポール・ボキューズが関わったレストランとして有名になりました。
銀座の前は麻布今井町に1956年にオープン、ソルボンヌ大学へ留学した女性オーナーが古レンガ造りのパリの下町の美味しい料理店をイメージしてつくりました。
70年台の上記の通り名声を博しましたが、金銭問題があり。銀座店は1982年に閉店、その後代官山、玉川店も相次いで、閉店。
今は跡地は「イルドフランス」のシェフであったアンドレ・パッション氏の「レストランパッション 1984年」。写真の手前がカジュアルな「ル・ビストロパッション」でしたが、現在は「ル・コントワール・オクシタン」、かつてレンガ屋のケーキ店。
個人的に利用したのはケーキ屋としてのレンガ屋でした。
ここから5分ほどのところに「メゾンポール・ボキューズ 代官山 2007年」があります。
横浜や函館には観光名所として煉瓦の建物がリノベーションしています。
昔から知られているのは銀座の煉瓦地という呼び名からの「煉瓦亭 銀座 1895年」支店も「深川煉瓦亭 1928年」「新富町煉瓦亭 1963年」。深川の店が赤レンガ造りの店構え。
ほか洋食「レンガ 蒲田 1957年既に閉店」喫茶店「赤レンガ 銀座 1980年頃既に閉店」スペイン語の赤レンガの「ラドリオ 神保町 1949年」皆外壁や内装が煉瓦造りでした。
全国でも半分くらいのレンガの付く食べ物屋は煉瓦造りです。もっとも一番新しい東京の店は再掲ですが、「煉瓦 渋谷 2014年」ステーキを煉瓦造り炉窯で焼く店。
アマンド
HPからの記事によると「アマンド 新橋(既に閉店) 1946年」喫茶と甘味の店、店名の意味は仏語のアーモンド、または甘人(アマンド)。
アマンドピンクとアマンドスタイルのサービスが評判。アマンドのピンク色は戦後の日本人に元気になってもらいたい色として、選ばれた色。
個人的にお世話になったのは「アマンド 六本木 1964年」六本木の待ち合わせ場所として、"ドピンク"のひさし、看板は本当に目立ちます。六本木に初めて立った時東京新人のありがたい場所。
2014年、六本木店はリニューアルして、昔の派手さは薄れ、ピンク色も大人の女性をターゲットの色。
六本木から西麻布の坂へ下ったところにも「霞町アマンド」「赤坂アマンド」は2000年に時代の波でお酒も飲めるカフェバー「アマンドカフェアンドバートウキョウ」にリニューアルしたこともありました。
新店「カフェドアマンド 虎ノ門 2016年」も含め6店で頑張っています。
現在は甘味と喫茶の店は変わらないですが、メニューに昭和レトロ、『アマンド昭和パーラー』『アマンド昭和食堂』と命名して既に閉店した赤坂(1964)と霞町(1966)のレストランルームのメニューを出しています。
アマンドについてのブログも若い方ではなく、かつてのお客の思い出の内容が多くなっています。写真は創業当時のアマンドカラーのひさしの「アマンド 銀座 1968年」
A1 エーワン エイワン
レストランA1にも意味があり、一流、優秀なの意味です。今、煩雑に出てくるAI(エーアイ)ではありません。こちらは人工知能。
ガイド本には1がアルファベットのI(アイ)と読み誤りそうなのでAワンとなっています。
今の時代は数字、ローマ字の組み合わせが急増中です。洋食だけでなく、和食も店名に増えています。
世界遺産のザワショクで国際化の波が共通言語数字とローマ字の組み合わせを好んで使う理由です。エーワンはその先駆けでした。
エーワンは『建築写真類聚』にも取り上げられたほどのシャレた建物。一階は煉瓦造りで尖塔が尖ったゴチック式アーチの入口の目立つ外観でした。
店名が「A1」と表示してあります。
『大東京うまいもの食べある記 白木正光 丸の内出版 1933年』にも黒っぽい目ただない建物だが、一階の酒場は凝った作りであり、上流の客が利用していると書いています。
アメリカ帰りのオーナーが最初A1カフェを西銀座に開店、震災後とありますから1920年代後半でしょう。(『東京市商工名鑑 1929年版』には「ヱーワン 銀座西8-4」と掲載)
洋食の花形フランス料理ではなく、アメリカのホームキッチン料理を出していたそうです。
文学者も出入りする有名店に成長し、先のシャレたレストランとなりビーフステーキ、ローストビーフが評判をとりました。
戦前までは大きなビルも建てていて、繁盛していたそうです(『東京の味 角田猛著 1956年』より)。
ネット上で外食データを提供している『外食Biz』でも昭和10年(1935年)の有名店としてローマイヤ、スコット、丸の内中央亭、アラスカ等と共に名を挙げられています。
戦争の食糧不足で閉点同様になり、戦後アメリカ占領軍の接収にあいそのまま閉店となっています。
1960年代のガイドには「丸の内エーワン」の名がありましたが、繋がりは解りません。ガイド本『東京洋食のお店 JTB 1996年』に「エーワン 丸の内」が紹介されていて。新国際ビルの地下150席を有する大店でした。
今は残念ながら東京にはレストランはありません。(中華と居酒屋はネット上にあり)
『洋菓子の研究 中央公論社 1979』には父親が「エーワン」を経営していた「コッポラ 赤坂」のイタリアン店オーナーと「エーワン」が年配のお客の語り草になっていた記事が載せられていました。
繋がりは解りませんが、全国では今は洋食「エーワン(A-1) 秋田市 1935年」関西の神戸市に「神戸エーワン 神戸市三ノ宮 1964年」、大阪にステーキ店、大阪にはパンのチェーン店「エーワンベーカリー 1948年」があります。
南欧料理店・地中海料理店 ⓢー (追加2018.10.1)
南欧料理は南ヨーロッパ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシヤに南フランスのプロヴァンス・コートダジュールを含む地域の料理、地中海料理も同様に地中海に面する地域の料理。
特に地中海料理は魚介類好きな日本人のために洋風に、トマト、オリーブオイル、ニンニク、ハーブ等で魚貝をアレンジした日本で作られた新しい料理のジャンル、国別料理ではなく素材ありきの国境を越えた料理(『イタリア料理 ソニーマガジンズ 1991』より)だそうです。
大部な料理事典、1987年出版の『イタリア地中海料理百科事典 同朋舎出版』では扱っているのはイタリアンとスペイン料理でした。
70年台から80年代、フォーマルなイタリアン、フレンチばかりの中、若者が通ったのが地中海料理店でした。
魚貝系洋風料理で3千円台、プラス酒ワインを飲むことができたレストラン。かしこまらず、居酒屋風に使えた店、若者人気が一気に上がったエリア、吉祥寺、下北沢、自由が丘周辺に多くありました。
西麻布の外苑西通りは地中海通りの名がついていましたが、地中海料理店は安さが売りでしたので此処のにはありませんでした。
ガイドにでてくる最初のレストランは今はイタリアン「文流(日本とイタリアの文化交流の意味) 高田馬場 1973年」は南欧料理店。「ドマーニ(伊語また明日) 池尻 1966年」地中海料理店と載っていました。
その違いははっきりとはせず、「文流」も地中海料理店になっている時もあります(例シェフシリーズ中央公論社)。
『東京いい店うまい店 文芸春秋社』では1977年版から1987年版まで「文流」を南欧料理店として紹介しています。
『アジ-ダス便利帳 東京いい味うまい店500 1988年』に地中海料理としてこの二店が掲載されています。
『繁盛する店が美味しいのだ 桑原才介 商業界 1982年』には南欧料理店が「ル・クープシュー 西新宿」「ルボンヴィボン」「フラッグス」地中海「ド・マーニ」「ルヴァンドヴェール」「墨絵 新宿 1983年」
『ぴあMAPグルメ』は10年間地中海料理と南欧料理の項目が1995年出版の1996版まで分かれていましたが、それ以降はスペイン料理と一緒の項目、ヨーロッパ各国料理店と一緒と変転しています。
1996版で載っていて残っているのは地中海料理「カルタゴ 中野」はトルコ料理、南欧料理は「ジャックポット 下北沢」はオイスターバー。
以前も挙げた下北沢から移転した「コパンコパン 上北沢」、吉祥寺にもあったそうですが、今は南欧風居酒屋のワイン食堂、移転時はパスタ食堂を掲げていました。
口コミの先駆けザガットサーベイの初版「サガットサーベイ東京のレストラン2001』には「文流」「ドマーニ」はイタリアンに分類。
同時期のアスキーの口コミをまとめた「東京レストランガイド2001」では地中海料理店として「ドマーニ」「ダ・メオ・パタカ」「ルボンヴィボン 吉祥寺 1978年」。
「ルボンヴィボン」はこのガイドの前は「ダ・メオ・パタカ」と反対に南欧料理店をなのり、今はフレンチになっています。
吉祥寺では一番の古株の地中海料理店「ダルジャン 既に閉店」も同時期に頑張っていたようです 1997年以降のガイドを拾ってみると、地中海料理は減り、倍以上に南欧料理の看板を付けるレストランが増えています。でも、ひとつひとつ見ていくと、フレンチとイタリアンの両方を提供したり、パエリ屋店、ヴァランセという山羊のチーズをメインにする店だったり。南欧は便宜上南ヨーロッパ周辺の料理店に使われていました。
どちらかというとカジュアルな系統でしたが、魚料理を中心としていたフレンチも「カザミドリ 目白 1981年」「ロアゾー・ブラン(シェフの姓名白鳥) 人形町」のようにかつてガイド本に地中海料理店と紹介していました。
既に閉店している初期ののフレンチ「シャドネーフランス亭 麻布 1968年」も開店当初は銀座イタリー亭の姉妹店として地中海料理店として始めていました。
過去のガイド本を開いても、入れ子のように分かりにくいふたつ、現在はこの二つの呼び方はイタリアン、スペインに分類される店が増えてカジュアル系はバル業態を相当数占めるようになり、数は減っています。
特に南欧料理はほとんど消えかけています。プロブァンスとはっきり地名を入れるレストランが増えていますね。
一番最近のオープン南欧料理店は食べログからは「モンペトクワ 五反田 2015年」のみ。この覚えにくい店名の意味はわかりません。歌手さだまさしさんの友人のイタリアンレストランだった「モンペトクワ 渋谷 2004-2011」と関係があるようですが、確認は出来ません。
1980年に「ボファンジェ(パリの1864年創業のボファンジェから共同経営) 六本木 1980年」を含め26店舗がありましたが、経営破綻して、商社オーナーに引き取られ2004年に元シェフや従業員と共に再開しました。
現在の地中海料理店はエリアを広げて、地中海沿いのアフリカ諸国、トルコ、イスラエルのレストランのサブの料理名になることが中心。
新しい方向としてはオリーブの木の項目であげた「地中海食堂 オリーヴァ 学芸大学 2015年」オリーブの樹木が広がる地中海諸国をリスペクトしシーフードとパスタ中心。
経営的にイタリアンが飽和状態のため、グローバル化へ進むことを考え、様々な料理に挑戦できる地中海料理を選んだとのこと。(料理王国2016.10月号より)
ビルのオープンラッシュで評判の銀座では「アポロ(THE APOLLO) 銀座 2016年」でも本店はオーストラリア発のギリシャ料理店ですが地中海料理扱い。
人気の南麻布から移転の「シカダ(CICADA) 表参道 2003年(2012年に移転)」は夏の虫、蝉の仏語。環地中海料理とあり、お客の意見はアメリカン風地中海料理。
食材でムール貝専門「ムール&フリット 自由が丘 2016年」も地中海料理店。 以前は店名は伊語、仏語、スペイン語から、付くことが多く、ペスカトーレ、マール、カサヴィーノ、アズーロ等、ほかの業種からの転向も楽でしたので英語の「フィッシュキャビン」や「ココパームズ」「常盤木」等の店名もありました。
ちょっと笑ってしまう地中海料理店「フラスビリア(fraspilia) 大手町 2014年」はフランス(fra)スペイン(sp)イタリア(ilia)から造語しています。
地中海料理の看板は日本人に親しみやすくするためにつけられているようです。
最も新しい店「ディーズメディタラニアキッチン 表参道 2016年」D'sはトルコ人シェフの名前に地中海の台所となっています。地中海はトルコ料理だけでなくより広い分野のアピールです。
健康志向の時代、長寿の料理として地中海式食事を掲げる例もあり、また、2010年に和食と同じく、ユネスコの無形文化財として「地中海の食文化」の指定を受けているので、見直しが進むかもしれませんね。
2015年のガイド本掲載「シルコ(Circoースペイン語サーカス) 神楽坂 2013年」は地中海式健康法を取り入れている地中海バルとありました。
海は遠く、遥か彼方に・・・ (追加2017.09.30)
幕末から明治にかけての開港、海へ漕ぎ出し、目指す世界、西欧世界へ、は憧れの世界に向かって開く。店名の「カイヨウ」は当て字が多くありました。「海陽亭」「開陽亭」「海曄軒」「快養軒」、大海の「大洋軒」「太平洋」。乗るのは客船、お金のない人は貨物船に乗る方々もいました。「昭和の70年代頃までは海を移動するのは青函連絡船のように、船でした。
外国に行くにしても船で横浜、神戸から船出していましたね。
個人的にも青函連絡船のカミテープをもつ風景を経験しています。その後青函トンネルや瀬戸大橋のような橋の完成により船の移動は観光のみ。
今はそんな情景は国内外ともに見られず、飛行機でどこへでも行くことができ、飛行機代も格安航空機もあり、九州へいくより、韓国や香港の方が安かったりします。つい最近のニュースでも夏の海水浴客も激減して、皆プールで水遊びをする方が好まれているそう。
昭和の中頃まで、多くの歌謡曲、日本映画の舞台になった港や船の人生の旅立ちの場面、別れの場面が歌われ撮影されていました。
日本のイメージの海は船入船屋・宝屋・帆掛屋で取り上げた通り、来福への願。海に海上他界、ユートピアを求め、厄災を川から海へ流し、福徳も海から訪れる
宝船はそれを図章にしたもの、帆掛船、入船もその延長だと思います。かつては宝船が七福神や米俵や宝を載せ帆を張り、海からやってくる図が初夢グッズとして年始に売り出されていました。
「帆掛」は鮨屋以外は少なく、入船は地名もあるので和から洋まであります。
他の商売でも「帆掛」も「入船」も江戸末期までみけられないので、開国時代に出てきた店名かも・・・。
江戸末期「帆掛鮓 日本橋通二」、名物玉子ずしの名代で早漬屋寿しの項目に『東都歳盛記 慶応元年版(1856年)』、『東京案内増補改定1881』 『東京買物独案内1890』等載っていました。「ほかけ寿司 京橋区 1916年」「帆掛鮨 赤坂区」「ほかけ鮨 京橋区月島西」が戦前ガイドブックにあります。現在は「帆掛鮨 岩本町 1879年」「ほかけ 東銀座 1948年(戦前三田、銀座で一度移転)」が残っています。
入船は1935年ガイドの和食「入舟 銀座」、お座敷洋食店が有名「入舟 大森 1924年」。以前写真と共の挙げた鮨屋「入舟 大田区奥沢 1962年」もいろいろな案内に見受けます。和菓子店、蕎麦、割烹、居酒屋と帆掛よりは幅広くあります。両方とも古い店が多いので由来が不明なのですが、唯一割烹料亭「入舟 向島 1960年代」はHPでは初代が幼い頃みた小田原漁港のように入舟、出船で多く賑わう事を願って付けたそうです。
「ガンシップ 麹町 1977年頃」ホテルニューオータニのレストランで16世紀の帆船のイメージ。「キャビーヌ 新橋 既に閉店」船室のイメージ、カフェ「カピタン 浅草(浅草ビューホテル2017.12月に改装、別名に)」
喫茶店「珈琲船団 日本橋 1972年」「ギャレット(二本マストのスクーター船) 原宿 1981年」洋食「難破船 赤坂 1989年」は内装が船のキャビンのイメージ。
フランス語帆船の意味の「ブラッセリー・ヴェラ 代々木上原 1993年既に閉店」、このレストランは1997年にオープンして大人気であらゆる雑誌を飾っていた「レストラン・キノシタ」のオーナーシェフが名を挙げたフレンチ。
海、船そのもの以外に、錨、羅針盤当りが出てきます。ホテル関係のレストランは船旅のイメージから羅針盤の「ローズコンパス 恵比寿」。こちらは地図上に描かれた羅針盤が花のようなので、ローズの名称。
写真は開店年不明ですがロゴマークはコンパスの喫茶店「コンパスコーヒー 旗の台(九品仏2号店、戸越銀座店3号2016年)
「アンカーイン 渋谷 1976年」船やヨットの錨を下して休むこと、従業員の制服まで船内風になっていた喫茶店
「ロザリオ 神保町 2011年閉店」ロマッチックな歌謡曲もあり、クロスのついたネックレスかと思っていたら、船のいかりのこと。
海運ビル1階にある「Anchor Point ( アンカーポイント) 平河町 2016年」は新しいステーキ店。錨を下す場所、停船場の意味でビルの名前に合わせた店名のようです。
港町横浜は既に閉館したザ・ホテルヨコハマの「カラベル 横浜山下町」三本マストの帆船。
横浜はイメージもあり現在「霧笛楼(大仏次郎の小説『霧笛』から) 1981年」や人気のイタリアン「カンプーザ(船の食糧貯蔵庫の意味)」「ガレオーネ(小型の船ガレオン船のこと)」洋食「キャビン」「キャプテン」昭和テイストの喫茶店「キャビン」、実際は浦賀にやってきた「黒船」が焼肉、牛カツ、鮨屋にもあります。
東京では店構えがキャビン風の「キャビン 赤坂 1976年ガイド本掲載」帆船のいくつもの飾り、天上に甲板板の「キャビン 神保町 1978年」「キャビン 上石神井 東京のカフェ1984年掲載」は2013年には建物は壊されたそうです。
インテリア、制服、メニューまで船のイメージを再現していたようです。「舟 渋谷 1976年」も同様にグッズ、船内インテリアの喫茶店。
洋食「レストキャビン 函館 1969年」あたりは内装も船の客室風。
写真は大阪の「キャビン 大阪 1975年」建物の形からドア、船の丸窓、内装まで船の雰囲気
「ハトバコーヒー 西荻窪 2016」は波止場の復活かと思ったら、ロゴが鳩のマーク+BAでした。
15世紀以降の世界歴史の『大航海時代』は海と船が主役。東京はほとんどもうないですが、「マルコポーロ」「コロンブス」「バスコダガマ」「マゼラン」の方々があります。日航ホテルの「マルコポーロ お台場 1996年既に閉店」、大手の居酒屋チェンの幕末の頃の渡米した「ジョン万次郎 信濃町 1993-2017年」マルコポーロの著作名「東方見聞録 渋谷 1991年1号店」 『column』道・路・通・途いろいろ項と同様に船出も人生に例えられます。
「航海屋 阿佐ヶ谷 1993年」は二人の息子さんの一字で二人の成長と大きくラーメン業界を航海する想い。天麩羅屋「すず航 茅場町 2005年」すずは苗字で航は荒波にもまれて航海する船のようにどんな困難にも打ち勝ちたい初心をあらましています。
和食店「梧洋 銀座7丁目 2016年」は梧は鳳凰が棲む桐の木、洋は皆に幸せが広がるように願って付けられています。洋の漢字は海洋、東洋、西洋に用いられ、大きな海の意味、洋々のようにひろい、溢れる、広々とさかんの意味も持っています。
こちらの使い方は残っていくと思います。
海そのもの、シー(sea)はほとんどシーフード、日本語の海も食材海鮮などに使われるのが多。
「七つ海」の店名もあります。壮大なイメージの七つの海が好きでつけた「七つ海堂 世田谷区代沢 2002年」、青山ダイヤモンドホール地下にあった「セブンシーズ 表参道 2016年に閉店」は多国籍料理のビュッフェをやっていたので世界中の料理がある意味なのでしょうか?
古い喫茶店に仏語・伊語のマリン(海)、マリーナ(海の、海岸)がまだ残っていますね。テレビで何度か取り上げられているのは大盛りナポリタンで有名な「マリーナ 押上 1973年」
ライフスタイルカフェ (追加2017.02.12)
ネット記事オールアバウトに載っていたこの言葉、ライフスタイルカフェ。カフェの内装に売り物の商品を使って、その販売をもするカフェ。
記事に挙がっているのは「ラカグ(la kagu) 神楽坂」「トゥデイズスペシャル 自由が丘」等。ミニマリストと呼ばれる方々のミニマル生活がよく雑誌に取り上げられています。
必要最小限のものだけで暮らす、モノを持たない生活を謳っています。
本も『ぼくたちにはもうモノは必要ない 佐々木典士 2015年』『フランス人は10着しか服を持たない 2014年』『少ない物ですっきり暮らす やまぐちせいこ 2016年』多くの出版等。
厳選した家具や食器を選ぶ必要がある訳です。
以前はインテリア家具のフランフラン、雑貨「ボザール」のように狭いエリアでしたが、『無印 青山 1983年』のように生活全般をプロデュースしています。「Café&Meal MUJI 有楽町 2001年」で食のオーガニックも売っています。
一番イメージに合うのがサザビーリーグ傘下の「Afternoon Tea(アフタヌーンティ) 渋谷 1981年」。イギリスの公爵夫人が考えた午後の3時から5時頃に軽食と紅茶を楽しむ"午後の紅茶時間"の文化から午後のゆったりした時間を女性が楽しむ新しい文化を提案。先の「ラカグ」も同じ経営会社。「ティースタンド 表参道 2013年」も。
写真の閉店してしまった「フォブコープ(F.O.B. COOP) 広尾」1981-2015年」。
輸入雑貨店でフレンチカフェも併設。店名のF.O.B.の意味は本船積渡価格とCOOPの協同体で本当に良いものを適正価格で提供すること。
ブランド品ではなく日常生活に使えるシンプルで機能的なものを多くの女性誌で広めた功績大。
ブラジルコーヒー (追加2017.02.12)
「パウリスタ 銀座 1911年」が広めたブラジル産コーヒーはひろくコーヒーならブラジル産のイメージを全国に広めました。
現在はサードコーヒーの流行で世界上の多くの地域から農園も指定したコーヒー豆を仕入れていますが、大正時代はとにかくブラジル産でした。
歌謡曲にも歌われる『ギンブラ』も銀座をブラブラしょうではなく、銀座へブラジルコーヒーを飲みにいこうの略だという説もあります。
それと共に全国に店名「ブラジル」ブラジル人の「ブラジエーロ」の喫茶店ができています。自分の近所にも同名の喫茶店がありました。
吾妻橋ブラジルコーヒー
1932年開店
浅草・銀座ブラジル
1964年
神田ブラジル館 1965年
神保町伯剌西爾 1973年
ブラジルとブラジレイロの喫茶店について『喫茶店の時代 林哲夫 編集工房ノア』に詳しく載っています。
日本各地の開店事情が載っていますが、東京に絞ると「ブラジル珈琲宣伝所 日比谷 1932年」通称「ブラジル珈琲」がブラジルの貿易会社と日本の商社が開設、1934年に銀座4丁目に移転していました。藤田嗣治画伯の大壁画が呼びものでした。
この系列の大阪の「ブラジル珈琲宣伝所」以外にもブラジルは全国に広がったようです。浅草六区や福岡もあったそうです。
もうひとつの「ブラジレイロ」は同じくブラジル政府のコーヒー豆の無償提供され、「ブラジレイロ 大阪梅田新道 1930年」を開店。東京の銀座一丁目、京都四条通(1931年)、福岡市東中州と次々支店を増やしていきました。
1960年代の喫茶店案内には「ブラジル 銀座2-1」「ブラジル 銀座東三」「ブラジエーロ 日本橋室町」「ブラジル 港区田村町」「ブラジル 歌舞伎町」「ブラジル 渋谷区上通り三」と大きな繁華街にありました。
上の写真は現在東京のある「ブラジル」店名の喫茶店です。上にあげた「ブラジル」との繋がりは解りませんが、「吾妻橋ブラジルコーヒー」は最初「ブラジル大衆園」というミルクホールで開業しました、その時名前を「銀座ブラジルコーヒー」からもらってとのこと。
ほかに神田の「ブラジル館}の姉妹店「ブラジル館 西新宿」、既に閉店した「珈琲園ブラジル 東麻布 1975-2014年」。
ブラジレイロはネットでは「ブラジレイロ 福岡市 1934年」が福岡市最古の喫茶店として挙がっています。
ネット上にもテレビ番組に出てきた東麻布「珈琲園ブラジル」、西新宿の「ブラジル館」は小説家中上健次の通った喫茶店の記事があります。
「ブラジル食堂 中目黒 1957年開店」最初はミルクホールとして、後定食屋さんに変更(板橋区のブラジル食堂の記事に昔コーヒーを販売、原産国の名をつけたとあります。)。
山手通りにあった思い出の食堂としてブログにありますが、どうやら1980年代に板橋区の住宅街に移転したようでした。
でも、食べログの投稿を読むと、店名ブラジルとただの飯屋にギャップを感じる方がいる様子で、ブラジル色0と書かれいてます。
「ブラジル食堂」をネットで探しましたら「ブラジリアン食堂bancho(バンチュー) 三軒茶屋 2011年」の記事が多数。
現在はブラジルイコールブラジル料理イコール肉料理シュラスコの時代なんですね。
ロイヤルなベタな店名 (追加2017.12.17)
もう使われて使われて、擦り切れるくらいの頻度で、それでも使われる店名。
ベタな店名と揶揄されがら、何度も使うその店名の力はどこからくるのでしょうか。でも、ロイヤル系列の意味合いは変わってきているようです。
最初に『長く愛される店名ー王道かベタ店名か?』項目で書き始めたのですが、正当な意味ではファミレス系以外、あまり活躍していないようですので、こちらにいれました。
ロイヤル名世界の住人、キング、クィーンは別格ですが、プリンス、プリンセス、貴族、伯爵、男爵は昭和の片隅へ。
男爵、バロンが一番多かったのですが、今は食べログで2店舗。
いろいろな資料に取り上げられていた「珈琲バロン 早稲田 1968年」は既に閉じられているようです。
早稲田のバロンのマダムが答えていますが、爵位の身分が一番下。そこから上を目指そうとして付けたそうです。
他の爵位は本人の家柄が必要でしたが、日本ではこの爵位は国に貢献したら授与される例もありました。
多いのはかつては喫茶店「プリンス」、プリンスの店名は昭和初のガイドに『東京商工名鑑 1929年』「カフェフリンス 神田 1924年」『大東京うまいもの食べある記 1935年』には「喫茶プリンス 上野」が載っていました。
戦後も繁華街の新宿、渋谷、池袋にありました。「新宿プリンス 1952年」はマンモス喫茶として取り上げていました。1970年代の電話帳には洋食、喫茶店で30店以上ありました。現在は食べログで2店程度、全国にはまだまだあります。
ただ、ネット記事は「プリンス 福岡市天神 1957-2016年」「プリンス 町田市 1958-2016年」の閉店のブログが多数見つけられる。
もしかすると1960年代から増え続けていたプリンスホテルの影が減っていく一因だったかも。
旧皇族の所有していた跡地に次々建てられていたプリンスホテル系列。
今は閉店していますが「プリンスピラ 芝公園」が東京プリンスホテル(現グランドプリンス)の庭にありました。今は「ル・パン・コティディアン」があります。王子の別荘が日常の糧に・・・。
中華の皇室の家の意味の「皇家飯店 外苑前」は跡地が「ロイヤルガーデンカフェ」は納得でしょうか?
閉店している店もありますが、洋食レストラン「シャトー 八重洲 1961年」「ル・パレ 竹橋 1967年」、「グリルシャトー 虎ノ門 東京いい店うまい店 1967掲載」喫茶店「王城 上野 移転1975年」「古城 上野 1963年」等あります。
一番有名なのは最近リニューアルした「パレスホテル 丸の内 1961年」その中のフランス料理店は「クラウン」。
同じく「パラッツオ 日本橋蛎殻町 1989年」はロイヤルパークホテル20階にあります。
シャトー、キャッスルはマンション名には見かけますが、頭・尻尾にインド、エスニック系のレストランにパレスが頻度高めに見かけるぐらいななっています。
「モーティ・マハール(真珠の城、館) 上野 1978年」 「RaJ Palace(ラジャパレス) 渋谷 1991年」王子様も「マハラオ 日比谷 1973年」バブルを彩ったディスコの名も「マハラジャ」王様、王族でしたね。
比較的新しいのは「CASTILLO 中目黒 2007年」同「銀座 2008年」「ビストロシロ 恵比寿 2008年」後の2店、私の城、僕の城へようこそ
ファミリーレストランの嚆矢「ロイヤルホスト 福岡 1971年」は「ロイヤル 福岡 1959年」からのファミレス化。王侯のもてなし、世界にはばたく、王者の風格、創業者のすきな言葉からの店名。
今はセレブでもユニクロ、無印、ジーンズを着る、リッチカジュアル時代、レストランの方はカジュアルリッチ系と呼ばれるカテゴリーもあります。
豪華系ロイヤルがイコール気分良くなるわけではなく、フォーマルな堅苦しい世界も感じます。
ロイヤルの象徴王冠のクラウン、クローネ、コロネ。神戸の有名ケーキ店「ケーネスクローネ」HPでは王冠の意味。
自動車のクラウンも1955年に発売、自動車業界をリードする王者の印の王冠の意味
消費のネーミングにもプレミアム、プラチナの名も目立つ時代。最初の頃はゴールデンでした。食べ物だとインスタントコーヒーの「ゴールドブレンド」とゴールデンカレー(共に1966年発売開始)、でしょうか。他に類を見ない金色を使ったとヱスビー食品のHPにありました。
キングやクィーンは当初は少数派だったのですが、今はプレミアムやプラチナの意味で使われています。
この使用法は以前も「ミカド珈琲店 日本橋 1948年」「皇琲亭 池袋 1983年」が高品質を表すためつけていました。「ミカド珈琲」のHPには『日本人が作るコーヒーが世界に通用する味』、要は頂点の味を目指してかつて見たオペラから着想の「MIKADOコーヒー」。
今はそのロイヤルな感じ、感覚を味わうだけでいいとして、セレブ感、特別感を求める方向へ。またSNS上でそれを見せびらかし、自慢する(共有するとは言いながら)優越感を味わう世界。
現在の流れは食べ物、飲み物に最高、プレミアム、特別感を求める方向。
王侯貴族ではなく、庶民が肉のランクA5、野菜のテーブルトゥファーム(農園から直テーブルへ)、ワインのオーガニック化、チョコレート、サードコーヒーそのものが特別のの固まりのような食べもの飲み物を得ることができる店が多くオープンしています。
古き懐かしき匂いの映画 (追加2017.12.17)
今はDVDの普及で、昔の名作を気軽に借りたり、買ったりして見ることができます。
リバイバルマスター版としてより見やすく修正を加えることもできる時代。しかし、著作権の問題もあり、現在は映画とのコラボ店はあっても、公に店名にはできない時代。
大正時代初め頃から上映され始めた洋画に対する憧れが強かったようで、昭和の時代はゆるい時代で平成の時代に閉店しつつあるとはいえ、まだ頑張っていますね。
一番最初は『モンパリ』レビュー映画だそうですが、有名なのはシャンソンとして最初に日本で宝塚歌劇団が歌ったものの方が知られています。
『大東京うまいもの食べある記1935』には丸の内と神田の「モンパリ」のカフエが載っていました。東京では探せませんが、全国ではまだ現役の店名で愛知県や熊本県にあるそうです。
芸術・文芸関係中でざっと書いた映画名は喫茶店に多い。
フランス映画やイタリア映画、ヨーロッパ系が先にあり、その後大量のアメリカ映画の店名が溢れました。
同じ映画名が溢れることはなく、いろいろな、店主が好きな映画名が多数ある状況です。文学関連も多数ある状態そうでが、文学の普遍性に比べ、映画はその時代その時代に愛された想いが詰まっています。
なかでも女優オードリー・ヘプバーンの映画は日本人に人気。『ブランド名』で少し書いた「ティファニーで朝食を」、そのテーマの曲の「ムーンリバー」映画「サブリナ」、「シャレード」は全国的にも広がっている店名です。
イタリア映画の『甘い生活』原題そのままの「ドルチェヴィータ 西新宿 1996年」喫茶店以外でもイタリアン「ドルチェヴィータ 銀座 2014年」、もじっての「豚とバラの日々 三軒茶屋 2016年」は1962年の『酒と薔薇の日々』でしょうか。
映画のタイトルではなくその中に出てくるヒーローヒロイン、モノ、言葉もあります。
「カフェデガランス 浅草千束 1970年代後半」は既に閉店していますが、オーナーが芸術肌の方で多くのアーティストが集う喫茶店。その頃有名なマドマアゼルいくこさん直伝のチーズケーキも有名でした。
東京にのみある。バーの「天井桟敷の人々 根津 1982年」最初は舶来居酒屋として、オーナーがこの映画好き。
写真は「ガランス 西新宿」
茜色の意味もあり鎌倉には「甘処あかね」も元はギャランスからとか。
「カフェドラギャランス 三鷹」も一階の「茜屋珈琲店」の混みに二階つくったカフェ。
茜色が好きなバー店主の「酒肆ガランス 白金台」もあります。由来は解らない「がらんす 田端」喫茶とシチューのお店、ガランスの看板の字体は茜色、シチューも赤っぽいビーフシチューです。
赤色繋がりでは『風と共に去りぬ』のヒロインのスカーレット。東京では喫茶店2店ほど食べログ掲載があります。色の真紅かヒロインの名かは不明。
カトリーヌ・ドヌーブ主演の『シェルブールの雨傘』から「シェルブール 水天宮 1980年」は傘屋さんなので連想させる言葉からこの店名。
この主人公の青年の名でも「カフィ・デ・ギー 六本木 東京のカフェ1984年に掲載」がありました。
映画『カサブランカ』から白い家ではなく、モロッコの都市名のハンフリー・ボガード主演映画。彼の愛称「ボギー」とともにファッション、キザナ名セリフに男性が憧れる世界。沢田研二の歌、ウディ・アレンの映画に現れています、
男性陣は戦後どっとやってきたウェスタン、西部劇映画が多かった推測するのですが、東京にはほとんど残っていません。「シェーン」『OK牧場の決闘 1957年』から「ワイアット」「ビリー・ザ・キット」。今では?のネイティブアメリカンをインディアン、敵方として描いた映画も多く、『幌馬車 1939年』「アパッチ」「インディアン」「ジェロニモ」はまだ店名にあります。他にロッキーと「ゴッドファーザー」系統が人気でした。
ヒロー、ヒロイン以外でも「キャンドル 銀座 1950年」は『哀愁』のクラブキャンドルライトから。
「Café PIKEY(カフェパイキー) 代官山 2006-2009年」はジェイソン・ステイサム主演、ブラッド・ピットも共演している『スナッチ』のなかに出で来る流浪民のこと、
上のティファニーから喫茶店「ティファニー 赤坂 1966年」フレンチ「ティファニー 神宮前 1967年のガイド本掲載」。「ティファニー 桜上水 1986年」、この新し目の店は外見は映画の世界のイメージカラー、「モノリス」は黒を「ティファニー」は宝飾店のイメージカラ、ティファニーブルーで彩っています。
最近のニュースでとうとうニューヨークのあの宝飾店「ティファニー」がレストランをオープンとか。
現代は記憶や夢は夢のままでなく、実現可能な世界。幸せなのか不幸せなのか・・・。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ
ロシア料理店ほか (追加2019.3.10)
『地名の流行』で消えゆくロシア料理店について書きましたが、温暖化の影響もあるのでしょうか、ロシア料理は不利な立場。ベルリンの壁崩壊後は少なっていきます。
1980年のガイド『洋食の店 柴田書店』には項目としてロシア料理がありましたが、『東京いい店うまい店 文藝春秋1989-2000』各国料理からエスニック料理の項目へと移っていました。
銀座ロゴスキー
2018年(渋谷1951年)
丸の内ゴドノフ 2018年
今のロシア料理は日本の料理の中にはロールキャベツ、カレーパンのモデル、ピロシキ(モロゾフが1933年に初めて発売)とロシアケーキが生きているくらい。
トルコからロシアへと伝わったロールキャベツは明治28年刊行の『女鑑 1895年』に既に調理法が載っているとのこと。
ロシアケーキは明治期から宮廷料理人に習った中村屋がずっと作っています。中村屋はボルシチも大正期にロシアの亡命詩人から教えられたとの記事もあります。
同時期にロシア人の名前が残されているのは二軒ともチョコレート菓子店「ゴンチャロフ 1923年 神戸市」「モロゾフ 1926年 神戸市」。彼らはロシアの黒パンも作っていて、大正期にはロシアのパンが流行になっていたようです。<
ロシア料理は今の60歳以上の方々にとっては洋食以外でコース料理を食べたのはロシア料理ではなかったかと思います。もちろんフレンチは結婚式でのホテルのコース料理をだしてはいましたが。赤い色のスープのボルシチ、鰊の酢漬け、つぼ焼き、ビーフストロノガルフ、ピロシキ、そしてジャム入り紅茶のコース。
最初のロシア料理店は何回かとりあげた写真の「ロゴスキー 渋谷 1951-2015年、銀座で2015年再開」、神戸の「バラライカ 1951年開店」も同年です。
『味の東京 関瑞男 東京百科事典刊行会 1956』には業種別索引で他の外国料理は西洋料理の項目なのにロシア料理の項目があります。(キッチンボン、ロゴスキー、サモワール掲載)。同じく『東京味どころ 正・続 みかも書房 1959年』は国別の項目ではイタリア、ドイツよりも多く10店も掲載していました。
ロシア料理の場合名前は少ないのですが、偶然か最新の店も名前で「ゴドノフ 丸の内 2018年」はモスクワ赤の広場にある老舗レストランからの出店。
1989年壁崩壊後の「ろしあ亭 神保町 1995年」「ミンスクの台所(ベラルーシの首都名) 六本木 2002年」「カフェモスクワ 2006年 吉祥寺」、グルジア料理のバル「Cafe RUSSIA(カフェロシア) 吉祥寺 2007年」。
お客はたぶんモイカだけしか呼べない「MOIKA29(モイカドゥヴァーツァチヂェーヴィチ) 高田馬場 2009年」は公邸料理人だったシェフの元勤務先、サントペテルベルグ市の日本総領事館の住所
松居須磨子が演じた『復活』のカチューシャの唄もありますが、1938年のロシア歌曲の『カチューシャ』が有名です。この店名では全国には在りますが、東京では見つけられません。
古いのは1950年代に流行の歌声喫茶「カチューシャ 新宿」、支店も2店、ロシア歌曲『灯』からの「ともしび(灯) 新宿 1954年」は東京から全国に広がった店名。「ともしび(灯)」は元々はロシア料理店「味楽」からその時代のロシアブームに乗って歌声喫茶に変えたそうです。(『散歩の達人2008.6月号』)
同じくロシア民謡三頭立ての馬車のトロイカ、『味の東京 1956年』に掲載の西洋料理「トロイカ 日本橋室町」喫茶店「トロイカ 西銀座」1963年の新宿の地図にも「トロイカ」の喫茶店が載っています。
今は東京にはなくて全国で10件、現代のネットでは岩手県のチーズケーキとチーズの載ったロールキャベツが売りの「トロイカ 北上市 1973年」ケーキ店「トロイカ 函館市 1977年」
トルストイの『イワンの馬鹿』の原題からからの命名した「Skazka(スカズカ) 錦糸町 2009年」。「石の花 歌舞伎町 1973年」はロシア民話から創作されたバジョーフの作品をもとにプロコフィエフ作曲のバレエの演目でしょうか。
チェーホフやゴーリキーも活躍しています。チェーホフの四大戯曲の最初の戯曲『かもめ(ロシア語チャイカ)』から「チャイカ 高田馬場 最初新宿1972年(ネット記事では1973年)、1990年代に移転」、ゴーリキの詩『うみつばめのうた』から「海燕(カイエン) 春日 2008年」、ロシア民謡『赤いサラファン』からも民族衣装の名前で「サラファン 小川町 1964年」。
三角形の形のロシアの弦楽器の名「バラライカ 神保町1954ー1999年、銀座1964年」1970年ガイドには若者が店内でこの楽器を演奏していたとあります。
コザックダンスの踊りからの「コザック 有楽町 1958年ガイド掲載」コザックダンスの円舞の「ボロブォール 六本木 1972年」
ロシア土産で有名な人形「マトリショーカ 新宿」は全国展開しています。
ロシアに関係のないフランスの料理事典からの「ラルース 浅草 1983年」、フランス語でルッスがロシアを言うそうなのでそちらも掛けています。スペイン語、「ボナフェスタ 浅草 1983年」。ネット記事では「ボナフェスタ」はマノスの出身でフランス風ロシア料理店の看板を掲げています。
浅草は「マノス」の影響もあってロシア料理店が多いので他言語の店名があるのでしょう。ほかにもマノス出身、ロシア語の大衆食堂の意味の「ストロパヤ 浅草 1977年」も営業中。
料理関係は古い店は「サモワール 渋谷 1950年」紅茶の湯沸し器の呼び名です。現在は東京では同名の店が池尻大橋、隣の横浜市には紅茶店「SAMOVAR 1974年」
唱歌で有名なロシア語ペーチカ、ピェーチカのペチカ「ペチカ 新宿 1966年」はストーブ、暖炉とオーブンが一緒になったもの。
「スメターナ 国立」はチェコスロパキアの国民的作曲家スメターナから?と考えたら、ネットではボルシチに入れるクリームの意味があるそうです。
日本人が好む植物名はほとんどないのですが、ロシアの国花のひまわりはパトソールニチニクは言いにくい。もうひとつ国花がカミツレ(ハーブティーのカモミール)のロシア語「ローマシカ 大井町 2015年」がありました。
ネットでは懐かしのロシア料理店としてパルコの「バイカル 東池袋」移転して池袋サンシャインで営業、その後閉店。一番最初の店は千葉パルコ開店時にあった「バイカル 1977年」かも。関連はわかりませんが、今は「バイカル 六本木」がありますが・・・。
同様にネット記事で多くみる伝説の店は「ヴォルガ 神谷町 最初銀座に1956年」です。ロシア西部を流れるヴォルガ川からか、民謡の『ヴォルガの舟歌』からかは不明です。 帝政時代の宮殿のような豪華なインテリア、シェフがフレンチ系だったのでそちらの料理からも出る高級レストランだったようです。
そんな豪華なのはもう出てこない現代は食材系のバル、エスニック、民族風を強調する方向へ変わっていくのでしょう。ロシア本国でもグローバル化に波がやってきて古いロシア料理の味が変わってきているようなので、日本もどうなっていくのでしょうか。
オーナーが最初に出演したゴーリキーの作品から居酒屋「どん底 新宿三丁目 1951年」は頑張っています。支店はロシア語のどん底の「ナドニエ 新宿三丁目 2016年」。喫茶店「ロージナ 国立市 1954年」はロシア語の大地、祖国の意味。
懐かしむ思いでブログには25年以上前に閉店した「茶居花(チャイカーロシア語かもめ) 阿佐ヶ谷 1972年」、当て字の意味はシルクロード途上にある小さな街の喫茶店。
京都の老舗フランス菓子店「バイカル 1955年」はHPに詳しくあり、創業者がフランスで世話になった兄弟子の故郷のバイカル湖から。あとから世界最古の湖でありタタール語で豊かな、命の湖の意味と知ったそうです。
西洋・ヨーロッパ・ユーロ (追加2023.12.30)
西欧の「seiohtei(西櫻亭) 新宿 1995年(再掲銀座店)」アメリカも含む「欧米軒 赤坂 1887年」。
全国各地にありましたが、多くが閉店の道を歩んでいます。
写真は唯一撮れた京都「西洋軒」元パン屋又は洋食屋かは不明?。京都のパン屋1号店は「西洋軒製パン所 1892-1970年、後ゴールド西洋軒」。
隣県には「西洋軒 大津市 1923年」がありますが、こちらは横浜修行なので関係はありません。ほか京都には洋食店「西洋軒 丸太町 1937年頃ー2008年」。
赤坂店はフレンチ「ボンヌボアール 赤坂 1982年」先に開店の「ビストロ串満天星 赤坂見附 1978年」から更に洋食「満天星 麻布十番 1988年(再掲)」として続いています。
全国でも閉店が多いですが洋食「西洋軒 松江市 1932年」は松江カツライスの元祖として今も頑張っていました。
借音した他のレストランはないのですが、最初の「精養軒」はまだ現役。パン屋「ニコラス精養堂 1922年」港区青山でミルクホールから始まる関東大震災で1923年に世田谷地区に移転。パン屋ということで戦後に父の洗礼名ニコラスを頭に追加した人気の店。
おなじ意味に思える洋風と欧風ですが、洋風は西洋風でアメリカも含む、欧風はヨーロッパ風と狭い範囲ですが、欧州、欧米、ヨーロッパも少なくなっていますが、食べ物屋の世界では頭や尻尾に付くショルダー店名として活躍中です。欧風カレー、欧風ケーキ、欧風キッチン、欧風料理など。
写真「ヨーロッパ食堂 三軒茶屋 2010年開店」はイタリアンになっているガイドもありますが、HPのコンセプトはヨーロッパ各国の郷土料理のレストランです。
恐らく長すぎて店名としては少なかったヨーロッパが欧州統合後はユーロの呼称となり、2000年後少しだけありました。
「Cafe EURO(カフェユーロ) 末広町 2002-2007年」「Euro Cafe(ユーロカフェ) 西新宿 2003-2022年」イタリアン「Osteria EURO(オステリアユーロ) 三軒茶屋 2000-2021年」。
店名としては定着しなかったようです。西洋料理店・洋食店=西洋・ユーロ等で業種に広がっていかなかったのが消えていく流れなのでしょう。 ★TOP頁へ★ ☆長く愛される店名TOP頁へ ☆数字 十・百・千・万TOP頁へ ☆みんなでTOP頁へ ☆記録・記憶の中の食べ物屋TOP頁へ