北野武監督の最新作が『座頭市』のリメイクである。いや、正確に表現するならば、『座頭市』という子母沢寛 の小説のオリジナル・シリーズ新作を北野武が自己流で味付けした作品なのだ。先日、ベネツィア映画祭のコンペティションに正式出品され、監督賞を受賞した意欲作である。確かにスタッフには長年『北野組』と言われるだけあって、そうそうたるメンバーに加えて、今回衣装に黒澤和子が担当した辺り、1951年、日本映画の存在感を世界に知らしめた黒澤明監督の『羅生門』が、ベネツィア映画祭にて最高の『金の獅子賞』を受賞したことをかなり意識し、大賞を狙うため時期も合わせたのだろう。
実は、北野武の映画は彼独特のテイストが合わないのか、世界各国で賛美された『HANA-BI』以降、一作も観ていない。その『HANA-BI』がダメだったからだ。北野作品は、『その男、凶暴につき』を除けば全て、北野武オリジナル脚本作である。これまでも本業と別にコンスタントに作品を世に送り出してきた彼のバイタリティには頭が下がるのだが、彼の作品には楽して観られない毒が至る所に仕組まれている。そして、『暴力』が永遠のテーマとして挙げられている、その首尾一貫とした作風は、昔の監督で言えば、ピスコンティやパゾリーニに匹敵するだろう。他にもホドロフスキーやキューブリックもしかり、勿論、日本の監督ならば黒澤明監督を避けては通れない。しかし、自分はホドロフスキーやペキンパーの暴力や今旬のタランティーノやロドリゲス、果ては、デビッド・リンチやクローネンバーグの暴力の美には楽しめるのだが、北野監督の暴力は暴力そのものの嫌みな部分のみが浮き出て仕方がないのだ。とにかく、自分が彼の自己流な映画に嫌悪感を持つきっかけは、監督作として2作目であり、初めてのオリジナル脚本作品の「3−4X10月 」を観た時から始まった。

座頭市
2003年作品 松竹映画 ビスタサイズ 115分
製作 森昌行
監督 北野武
出演 ビートたけし 浅野忠信  大楠道代  橘大五郎  ガダルカナル・タカ 大家由祐子 岸部一徳  柄本明

北野武が俳優として演じる時、必ず『ビートたけし』名義になるのだが、映画ではいつも冷徹なやくざの役になりきっている。そして、「3−4X10月 」以降の映画でも、その冷血『やくざ』の役は変わらない。マンネリズムではないが、いつもニコリともしない彼のその姿は常に観客に恐怖を植え付ける。そして、彼の実生活がまた、彼の演じる役と見事に折り重なってゆく所がまた恐さを生む要因にもなっている。『タケシ』と言えば、毒舌する芸人が売りであり、そんな彼が作る『暴力』をふんだんに詰めた映画が果たして、エンターテイメントとは違った方向に突き進んでいる感が強すぎるのだ。その、独特の恐怖を一番決定付けた映画こそ、『ソナチネ』であり、それは自分が映画館で一度観て以来、二度と観ようと思わない作品のひとつになった。決して出来の悪い作品ではなかったが、それはまさに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のように、キャラクターの狂気が映画から独り立ちして、演じた本人と重複して見えてくる二重の狂気に悩まされ、後味も悪くて思い出したくもない、そういった類いの映画だった。
そんな、北野監督作品への嫌悪感があるにも関わらず、今回この映画を観に行った理由は、彼が原作のある作品を久しぶりに作る事になったからだ。実は、彼の第一回監督作品の『その男、凶暴につき』は、本来、深作欣二監督の作品になるはずだったのだが、監督のスケジュールの都合で急遽、北野監督が初挑戦した作品であった。そして、その映画はかなり面白かった。脚本も、野沢尚であった上に、北野監督も初めてということでアート映画ではなくあくまで商業映画を意識して作ったのが良かったのだと思う。その際に、彼独特のテイストが絶賛され、ついに彼も自分のオリジナル脚本を書くのだが、それが彼の独特な世界をますますある方向のみエスカレートする作品郡を放出するきっかけになったとは、当時は全く予想だに出来なかった。
その彼が、自分で脚本を書いたとは言え、往年のスターである勝新太郎が築き上げたシリーズに挑戦すると言う事で、まずは彼自身がいつもの芸術寄りの作品よりも商業映画として取り組んだ事で、『もしかしたら』と期待を込めて観に行った訳である。
さて、肝心の『座頭市』だが、原色をふんだんに用いて批評家達を驚かせた(らしい…)『DOLLS』から一転して、今回はハーフトーンに落として青系統に廻したカラーで統一されている。これは、無慈悲の世界を表現するのに最大の貢献をしている。そして、音楽は今までの北野映画の常連であった、久石譲ではなく、『ムーン・ライダーズ』の鈴木慶一が担当する。これは、話の節々に登場する、和太鼓を基調とした祭りのリズムに合わせた農民や大工の仕事(ストンプ・パフォーマンス的な踊り)と、最後のタップダンスの曲を作るには、新しい感覚が欲しかったのだろうと言う事で非常に納得がいった。しかしである。この映画の最大の問題部分は、北野監督が、黒澤監督や勝新太郎の呪縛から逃れなれなかった言事ではないのだろうか。ネタばれにならない範囲で作風だけで批評をすると、至る所に黒澤監督の映画で観られたシーンが散りばめられている。。キーワードだけを挙げるなら、『雨』『斬新な殺陣』『スローモーション』『祭り』こういった要素は、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』『用心棒』等でイヤと言う程、観てきたものだ。模倣も良いとは思うが、残念なのがそれぞれにおいて規模が小さい事。様々な要素が取り入れられながらも、どれも今一歩迫力にかけるのだ。それは、配役にもあてはまる。北野映画では常連だが、通常無表情で冷徹な人物を演じている、岸辺一徳にはたして、『用心棒』の仲代達也になれるのか?このミスキャストはかなり気になった部分である。今回、演技力で凄い!と思った俳優もいる。それが、ガダルカナル・タカなのだが、実は彼の演じたお調子者の「新吉」は、かつて千秋実の演じた黒澤映画の「太平」や「平八」が手本になっているのは間違いない。表情や仕草までそっくりだった。でも彼はその模倣を演じきって陰惨な世界に本当の笑いを呼びおこしてくれた。彼が来年の日本アカデミー賞で受賞することを切に願うしだいである。
さて、黒澤明作品の呪縛から逃れられないのは、非常によく分かるが、それならなぜ徹底製作過程を真似なかったのかと言う疑問も生じる。凄まじい殺陣のシーンにより『R-15』のレイティングが付けられた『座頭市』でも、度々気になったのがCGIで作られた流血シーンである。深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』でも活躍した独特のCGIによる流血シーンは、昔の血の色はしていない。ましてや今回の様な青を基調とした映画なら尚更のこと、血が本物らしくないのだ。それほど、殺陣の撮影は実写だけでは飛び散る血を表現する事は出来ないのか?映画はあくまで虚構であるが、自然に流れない流血シーンを観るのなら、まだ血の流れないテレビ時代劇の方が良いと思うほどだった。それこそ、三隅研次の『子連れ狼 死に風向かう乳母車』のスプラッタ美学を手本にし、足りない部分をCGI技術で味付けする程度にして欲しかった。この部分に関しては、春に公開された「あずみ」は素晴らしかった。
最後に、この映画の音楽と一体化した数々のシーン(ストンプ・パフォーマンスを含む)だが、これはまさに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の再現であった。しかし、これもどうにも規模が小さくあまり意味も感じられない。そして最後の祭りのシーンは黒澤監督の『隠し砦の三悪人』と『七人の侍』へのオマージュと見受けられるが、このシーンは練りに練ったカメラワークとの連携で素晴らしいモノだった。映画は虚構である。面白い映画になるのなら時代考証にこだわらないといけない理由は無い。そんな良い例を見せてくれた監督の度量には感服せざるを得ない。そして、鈴木慶一の起用が一番生かされたのもひとえにこの『祭り』のシーンの為だと言う事もしっかりと受け止められた。まだまだ、この映画については言及すべき部分もあるが、映画館で観るべき作品としての完成度は高かったのではないだろうか。そう言った意味で、観て良かったと思う。

 
 
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